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20
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マチとヒムラが築と共に冬生の家を出て二時間は経った。カケルは部屋に残り、その間ずっとマチに指示されたものを調べ続けていた。使うものは自身のパソコンのみで部屋から出る必要もない。
――必要はない、が。正直な所トイレに向かう必要もないよう水分の摂取も控えている。喉は乾くが、もうどうしようもない。トイレがどこかと聞く相手も見つかられる気もしないのだ。
『役所にはどうせ行けない。築に頼んだ所で既に根回し済だろう。そっちで片っ端から調べておいてくれ』
そう、マチから伝えられたのはカケルが起きて、マチがまだ眠る前のことだった。
この家の敷地に入った時から、マチには見えていたはずだった。これまで共にしてきた仕事の中でもマチにはそういったものが見えていた。時にはカケルの目にすら見えるものもあったが、こと、呪いのように人の感情の部分については特殊でマチの目にしか見えていなかった。
依頼ではこの家の過去の人間が犯したことで呪いが発生し、その呪いは常にこの家で生まれた娘に降りかかり続けていた。
けれど、それが既に違和感であった。では、何故この家はずっと、続いているのか。
幾つかケースを考えていた。一つは九代前の妻が娘を呪うのは、自分の娘を粗末に扱い続けた夫への戒めで、生涯、この家が続く限り娘を奪い続けているというもの。一つは九代前が犯した罪を末代まで味合わせ続けるというもの。そこから派生して、更に多く。
しかし、ここまでではっきりとわかるのは、呪いの根源はこの家を呪い滅ぼすつもりではいないということだった。何故ならばこの家は続いている。憲三という男児が、生まれているのだ。そして、それがおかしい。
その上で、きっとこの家は供養をしていない。つまり、呪いを恐れ、鎮めようと試みてすらいないのだ。頑なに医療に頼り続けたのもその通り、呪いと知ってはいてもそれが足枷になるようなことはない。この家にとって呪いはどうにかしなければならない事柄ではなかったのだ。それはつまり、秋知の命さえも。
『秋知が死ぬことはあの夫婦にはなんの痛手でもない。その先、が問題なんだ。呪いを放っておいて、二百年もの間子供の命を見限って来たんだ。タチの悪い裏があるとしか思えない』
冬生夫妻はこの先の為で秋知の命は〝あわよくば〟助かれば良い。そして、きっとどちらにせよ〝形になる〟のであろう。
「ペテンだとでも思って舐めやがって」吐き捨てるマチの表情を思い出すと、彼には見えているこの家の本当の状況が察せてしまう。つい、カケルの口からもため息が漏れた。
人の感情が大きく関わる仕事はどんな時でも、やはり苦しい。
ヒムラの存在のお陰でそれ程感情を外に出すまいとするマチが表情を歪める。するとまるで鏡のようにカケルの心も苦しくなった。どちらに、引っ張られているのか定かではないが。
曇っていく頭の中はまるで梅雨の湿気が籠っているかのようだった。パソコンの画面を消し、暫し、考えた。少し、歩こうか。この部屋の扉を開けておけば、迷ってもいつかは発見出来るだろうし、階段さえ降りなければ、なんとか。
用心と、もしもを考えてスマートフォンを片手に、カケルは部屋を出た。恐る恐る、蝶番の音すら鳴らさんばかりにそっと、扉を開けて顔を覗き込ませた。
広い廊下には誰もいない。一歩、踏み出した、その、同時、スマートフォンが震え着信を知らせた。画面には漸く、という人物の名が表示されていた。
「はい」
『あ、カケル君? 遅くなってごめんねぇー、流石に手こずっちゃった』
この場にはいなくともその声だけでこの、重苦しい空気を持ち上げてくれるかのようだった。生温く間延びした千葉の声は強張ったカケルの心を少しばかり軽くさせた。
「なにかわかりましたか?」
『そうねー、まあ、頼まれてた通りだった感だね。文書とか情報はパソコンの方に送らせてもらったけど、そうだね、このまま僕に通報してもらっても構わないよって言えないのが申し訳ないんだけど』
「大丈夫です、それはマチも望んではいないと思うので」
『まあでも、ここまでやって来てる相手だから。マチ君を呼んだとしてなにをさせたいのかって思うけど、会ってもいないけど嫌な奴だね』
「僕もそう思います」
『あれ、珍しいね』
「電波、なかった?」
部屋の戸口でつい話し込み、周囲に気を配れていなかったとは思えなかったが、それにしても突然だった。気が付けば視界の中に彼はいて、動かない表情をカケルに向けていた。
「あ、いえ。千葉さんちょっと待ってもらえますか」
『どうせ暇だから気にしないで』その千葉の声を待ってからスマートフォンを手のひらに伏せ、カケルは彼と、奈津と向き合った。そんな気はしていたが、自分に向けられる視線が少し、気がかりであった。
「電波は大丈夫です。少し、体を動かそうと思って」
「そう。……ねえ、聞いていい?」
「はい?」
「いつ起きたの?」
「はい?」
動かぬ表情のまま、突拍子もないことを言う。その様はマチの能面時より凄まじい。マチに対しては知っている前提であるが為かもしれないが、それにしても堂々たる無表情ぶりだった。
(この人こんな人だったかな)
最初の印象よりも随分感情が乏しいような気がしたが、そもそもそれを理解している程知っている間柄なわけでもなかった。カケルは自身の頭に浮かんだ言葉をかぶりを振ってかき消した。
「大分早くに起きてましたが、もしかしてうるさかったですか?」
「いや、そんなことはなかったけど。どうやって起きたの? いつも、そんなにはっきり起きれてるの?」
「起きるのは苦手ではないですけど……」
「起こされてるの?」
「え?」
「起こしてもらってるの?」
「……時々、ありますけど……」
カケルが困惑を浮かばせたのが先か奈津が異常を察したのが先だったのか、恐らく両者、噛み合わない会話に気が付いた。その途端共に黙り込み、狭間には奇妙な空気が滞留していた。
堪りかねたカケルが口を開こうとした時、またもタイミングが重なった。けれどカケルが黙ることとなった。奈津が、一瞬困り果てた表情に染まったのだ。
「あの……」
「そう、そういうこと……」
この一瞬の間になにをしでかしてしまったのか、奈津はとても、失望にも似た表情に変わった。呟かれた言葉もほんの僅かな声で落胆を隠せない。
「ごめんね、気にしないで」
なんとか浮かべた、そんな表現で上手く表せたのかもわからない。奈津は、彼が抱いた感情の上で精一杯の笑みを浮かべて去って行った。
なにを伝えようと、なにを自分から聞きたかったのか。まるでわからないが何故か心苦しい。そうなったとして、答えられたのかもわからないのだが。
手のひらに伏せられたスマートフォンから大きな声で千葉を呼ぶ鏡の高い声が聞こえた。そうして我に返ったカケルはなんであれ奈津にトイレへ案内してもらうべきだったと、酷く後悔した。
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