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※  「灰色の者です」とマチが決まりの挨拶をすると、これまた本日は決まりの「大きいの」「それ」とカケルとヒムラの紹介も終えた。やはり、自分自身だけは日昏(ひなき)と名乗りながら。  三人を迎えた少女は、与えられている情報の中よりは随分と元気そうな様子だった。笑顔は明るく、消え入るようなか細い声でもない。けれど、その命が僅かな灯である証明かのようにベッドに横たえた体を起こす素振りもなかった。  柔らかな色合いの浴衣に包んだその体も、枕を背中に上半身だけは擡げているものの下半身はガーゼケットに覆われたままだった。 「秋知(あきち)です。母から聞いて、多分お互いにびっくりしたと思いますけど、よろしくお願いします」 「こちらこそ」  いつになく礼儀正しいマチの振る舞いに、ヒムラは思わず悪寒が走った。きっと、見る者が見れば黄色い声が上がるのだろうが、ヒムラには無理だった。この、梅雨の湿気よりも不快なものが全身の肌に纏わりついて悪寒がした。まるで濡れ葉の中を進むような感覚だ。なんの意図があるのかは知らないが、気味が悪い。  先頭にいるマチに、秋知(あきち)は母親が用意しておいたのだろう椅子を勧めた。丁度彼女と話しやすい位置に置かれた椅子は一脚、マチはその椅子に座ってから背後を振り返り上下に手を動かし「圧迫感」とカケルとヒムラに座るよう促した。確かに、大きい順に立ったまま残るのは圧がある。が、言い方はないのか。カケルはなにも思ってすらいない様子で従い床に腰を下ろしたが、ヒムラは不満が顔面に出るのを抑えきれなかった。 「専門家が来るなんて言ってたから、スーツでひげの生えたおじさんが来るのかと思ってました。私と同じくらい?」  ヒムラの表情を見て秋知はふっと笑い出し、秋知(あきち)の言葉にマチへ視線を向けたヒムラが笑い場の空気が瞬時に和んだ。死を前にした人物に会うというから、ヒムラは少なからず身構えていた。口から出す言葉に気を遣わねば、なにか、触れる場所を間違えれば爆発してしまうような空気を想像していた。  秋知(あきち)は思い浮かべていたような陰りもなければ、寧ろ暑さで茹だってばかりのマチよりずっと活き活きとさえしている。きっと、ここにたどり着くまでには様々な高い壁もあったのだろうが、彼女にはそれを相手に思い浮かべさるような負の感情すらもない。  その様子がもしも覚悟の証であったとしても、彼女の強さには頭が上がらない。ヒムラには自分がその状況になった時、同じだけ笑えている自信はなかった。 「こいつはまだ十七なんで同じようなもんだ。で、体の状態は」 「なんかもう色々だよマチ」 「ふふ。体は、最近はずっとこんな感じで。特に凄く辛いとかはないんだけど、ずっとこう、って感じで」  秋知(あきち)の笑顔が効いたのか、マチの口調も砕けた調子に切り替わった。ではやはりこれまでの対応の仕方にはそれなりに意図があったということなのだろうか。  「詳しく聞いてもいいか」と態勢を整えたマチに対し、秋知(あきち)は少しばかりそれまでとは違った笑みを見せた。それは先程ヒムラが思った高い壁の数々を思わせ、思わずマチを咎めそうにもなった。けれど、その秋知(あきち)を救えるのがマチだけであろうことを知っている。その自信がヒムラにもある。  きっとマチは救う。その為に来た。 「私は自分の体に起きていることを知りませんでした。十四歳の夏まで、自分がもうそろそろ、必ず死ぬことを」  幼い頃から自分自身の体が他の子供達とは違うことは知っていた。走るとすぐに息が上がり、酷い時には咳き込みが止まらず病院にも行く。それ程沢山も食べられず、その所為なのか体力もない。時折なんの前触れもなく急激に体が弱っては何日も寝込み、なんの薬を飲んでも確実な効果も、それ程の効果もない。  自分の体の弱さを見て「外に出れば治る、強くなる」「陽に当たれば良い」そんなことを言う人が、秋知(あきち)は大嫌いだった。それは自分のような状況ではなく、きっと既にその時点で自分よりもずっと強い。その通り外に出た所でそもそも陽に長くも当たっていられない。立っているのすらやっとの時もある、そして、立ち上がることすらままならない日もあった。  生まれた時から病院と秋知(あきち)の生活は同体のようなものだった。友人達が学校へ行くのと同じように、秋知(あきち)は病院へと通った。幼い頃はそれが当然だった。何故行くのかはわからなかったが、疑問を持つこともなかった。けれどそれも、小学校中学年まで。  小学校四年生になった時には病院へ通っても通ってもなにも良くならないことに苛立った。自分の〝病気〟はきっと治らない、両親との喧嘩も増えた。  けれどある日、急に自分の人生の大半を占めていた病院という存在がなくなった。それは小学校六年生の秋、中学生活を目前にして、両親は秋知(あきち)を病院へ連れて行くのを止めた。  その時はきっと、自分の状態は良い方向へ向かっているからなのだろうと嬉しくなった。皆と同じ制服を着て、共に学校を楽しめる。体の弱さは大人になるにつれて強くもなるはず、きっと、きっと。  病院へ通わなくなってから一年が経った。中学校も一年過程がもう終わる。体に変化はないが、病院へ通わなくなった負担が減って心ばかりは軽くなった。  けれど、良くなった様子もなく『病院へ行かなくて良い』とういそれが年齢を重ねる度にどういうことなのかわかった頃には、秋知(あきち)は既に学校を休み続ける日々に切り替わっていた。  通ってはいた中学校は、きっと一年の割合で言えば家にいた日数の方が優に多かった。病院へ行かなくはなったが、家で横になっていることが、明らかに増えていた。  両親はこれを予期していたのか、秋知(あきち)が中学校に上がった時に家庭教師を雇ってくれた。家に居ながらにして皆と同じように勉強が出来る環境は秋知(あきち)の心を支えたが、同時に悲しさも溢れた。ここに友人はいない。大きなグラウンドも、溢れるような数が収められた図書室もない。自分が学校には行けないという答えのような家庭教師と、ただ、二人だけだった。  それでも秋知(あきち)はまだ現実と向き合えない部分が大きかった。そうは思いたくなかった。けれど秋知(あきち)が十四の夏、両親は秋知(あきち)の部屋に来て、父がその、大きな丸い目いっぱいに涙を溜めて「一緒に過ごす時間を増やそう」と言った。そしてその時、初めて秋知(あきち)の体に、命に、起きていることを打ち明けられた。  父は咽び泣きながらもどうにか笑顔でと大きな声で笑った。母は静かに、ずっと、ずっと涙を流しながら父の笑顔にただ、頷いていた。  秋知(あきち)は父と母の涙と、そうであっても医療でどうにかしようとし続けてくれていたあの日々を思い、最早自分の中から溢れる感情が一体なんなのかすらわからなくなった。  けれど、これまで自分と同じように命を消していった彼女達のことを知り、秋知(あきち)は少し、ほっとした。ああ、どうにもならなかったのだ。沢山、色んなことを頑張って来たけれど、そのどれもが一つも身にはならなかった。それらはどれも、自分自身の怠りや頑張り不足などではなかった。  自分は精一杯やれていたのだ。この体が弱いのも、〝治らない〟のも、自分の所為ではなかった。この体に産んだ両親の所為でも、なかったのだ。
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