序 桃と鬼

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序 桃と鬼

 昔々、ある所に、おじいさんとおばあさんが住んでいました。  ある日、おじいさんは山へ柴刈りに、おばあさんは川へ洗濯に行きました。  その先にどんなに辛い定めが待ち受けているのか、二人はその時、知らなかったのです。  さて、おばあさんが川で洗濯をしていると、川の上流から、どんぶらこ、どんぶらこ、と流れてくるものがありました。 「あら……! フフッ。桃だわ」  おばあさんは思わず口に出して言いました。白い大ぶりの桃の実が三つ、水に浮かんで流れてくるのです。  おばあさんは洗濯の手を止めると、着物のすそをまくって、ひんやりとした川に入りました。そうして流れてくる桃を待ち構えて、三つともじょうずに受け止めたのです。 「まあ、りっぱな桃だこと……!」  おばあさんが、そう言った時です。川上から、さらに流れてくるものがありました。  それは大きなねずみ色のかたまりで、水にもまれて岩に打ちつけられています。おばあさんはどういうわけか、とてもいやな予感がしました。  あわれな獣のなきがらだろうか、と、おばあさんが思った直後。彼女の表情は凍りつきました。 「……まさか、そんな……。お、おじいさん……!」  信じられないことに、流れてきたのは、山へ柴刈りに行ったおじいさんだったのです。 「おじいさんっ! あなたっ! あなたっ!」  おばあさんはさけびました。おじいさんはあおむけに浮かびながら流れてきます。おばあさんは川の水をかき分け、おじいさんに少しでも早く近寄ろうとします。 「あなたっ! どうしたのっ? あなたっ!」  間もなくおじいさんは、おばあさんにだき止められました。おじいさんの着物はぼろぼろで、全身にひどいけがをしているものの、どうやらまだ息があります。おばあさんは手に持ったままだった桃をふところに入れ、おじいさんの体をゆすって呼び続けました。  そのかいがあったのでしょうか。やがておじいさんは、うっすらと目を開きました。おばあさんはなみだをこぼして言います。 「ああ、あなた……! なんて事……。大丈夫ですか? いったいどうしてこんな……」  するとおじいさんは苦しそうにうめきながら、おばあさんにこう言いました。 「……うう……、ばあさんや……。よく、よく聞くんじゃ……。鬼が……、鬼がやってくる……!」 「鬼ですってっ? こんな所に、まさか!」  おばあさんは川の中から辺りを見回し、半信半疑でそう言いましたが、おじいさんは辛そうに答えます。 「……わしじゃ……。わしのせいじゃ……。見事な桃の木が……、いつの間にか、山の中に生えていての……」 「桃……」  おばあさんは先ほどのことを思い出し、ふところから桃の実を一つ出して、おじいさんに見せました。 「桃ならさっき、実が流れてきたんですよ。ほらっ。この実はその木になっていたものでしょうかね。きれいでりっぱな桃でしょう? ねえ。鬼なんかとは正反対ですよ」  おばあさんはわざと明るく言いましたが、おじいさんは険しい表情のまま言います。 「……正反対……。その通りじゃ……。本来は、な……。じゃがわしは……、その桃の木の、あまりに神々しく、美しい姿を見て……、そして、はち切れんばかりに実った、三つの実のすべてを、この手でもぎ取ってしまった時……。うう……。わしは、恐ろしくなってしまったんじゃ……。何か、大それたことを、しでかしてしまった気がしたんじゃ……」  これを聞くと、おばあさんは体をふるわせ、声をもらすように言いました。 「それで……、鬼が……!」  おじいさんは息苦しそうに言います。 「……そう、じゃ……。鬼が現れ、わしは逃げた……。そうして川に、桃もろとも落ちたのじゃ……。ばあさんや……。鬼が、やってくる……。わしは、もうだめじゃ……。たのむ……。わしを放して、お前は逃げるんじゃ……。その桃、そのものは……、お前の言う通り、なんの穢れもない桃……。まさしく、神の桃じゃ。お前をきっと、守ってくれる……。うう……、行ってくれ……。恐れては、ならんぞ……」  おじいさんは静かに目を閉じ、そしてそれ以上何も言わず、身動き一つしませんでした。 「あなたっ! あなたっ!」  おばあさんは大声でさけびましたが、返事はありません。おじいさんの魂はその体を抜け、黄泉の国へと旅立ったのです。  おばあさんがそのことを悟り、彼の死を悲しんでいたのも束の間。周りの木々がにわかにざわめきを強め、みるみる空気が冷えてきたのです。 「……鬼が……」  おばあさんは辺りを見わたし、かすれた声でつぶやきました。おじいさんの言葉に、従わなくてはいけません。それも、今すぐに。  おばあさんはふたたびその目を、彼女の腕の中で息絶えている、おじいさんへと向けました。幾十年も共に連れそった夫です。にもかかわらず、鬼がすぐそこまでせまっている今、彼を埋葬してあげることさえかなわないのです。  おばあさんはなみだにむせびながら、そっとその手を、おじいさんの体からはなしました。水の流れに従って、おじいさんはゆっくりと川を下り始めます。 「……さようなら……、あなた……」  おじいさんのなきがらを川原に引き上げたとしても、そこで無残にくさり果てるか、鬼や狼が食い荒らすかするだけです。それよりはまだ、川の神様におじいさんをゆだねた方が、下流に住む人々に気づいてもらえるか、あるいはいっそ、おじいさんのあこがれていた、かなたの海まで運んでもらえるかもしれない。おばあさんはそう思ったのです。  おばあさんは川から上がると、なみだもふかないまま、桃をふところにかかえて走りだしました。  そしてその後ろを、角の生えた、黒く大きな、影のような姿が追っていったのです。
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