一 化け物

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 言われてモモはふたたび左目をさわりました。すると彼が言うように、まぶたには血のあとを感じるだけで、傷口らしきものは何もありませんでした。痛みもありません。安心して忘れたわけではなかったのです。けがはこの短い時間で、どういうわけかすっかり治ってしまったようなのです。 「化け物っ……! あいつっ、化け物だっ!」  男の子たちが言いました。モモと母親は言葉を失ったまま立ちつくしています。男の子たちは恐れおののきながら、元来た小道を走って逃げていきました。 「モモ……、あなた……」  母親はふたたび娘に言いましたが、続きの言葉が出てきません。モモはおそるおそる母の顔に目を向けました。先ほどの男の子たちと同じような、おびえた表情が浮かんでいます。モモ自身も、自分のことがひどく不気味に思えてなりません。彼女の胸には、男の子が言った「化け物」という言葉が、するどく突き刺さったままでした。  いたたまれなくなったモモは、すばやく母親に背を向け、走りだしました。 「モモっ!」  モモの母が辛そうな声を上げました。けれども彼女はふり返らず、村の外に向かって走り続けました。その目に、なみだを浮かべながら。  長い間走った末に、モモは川辺にたどり着いて、そこで暗い顔をして思い悩んでいました。 (……やっぱりわたしは……、ふつうじゃないんだ……。男の子たちやお母さんの、あの恐ろしいものを見るような目……。わたしは、人間じゃないの……? ひょっとして……、お母さんの子供じゃあないの……?)  モモは川原にあった大きな石に腰を下ろしました。川は細い小川ですが、山の雪解け水を集めているせいで、流れは音を立てて逆巻いています。モモは地面の小石をいじりながら、一人で考え続けていました。 (……鳥や獣の心が分かるのもそうだし……。あんなに血が出るけがはしたことなかったけど、小さいころから、傷が治るのは早かった気がする……。風邪とかも、わたしはぜんぜん引いたことがない……。髪が伸びるのも、すごく早いし……! いちいち切っていられないから、こんな、何重にも輪にして結ってる。背が伸びるのも、他の子よりずっと早かったんじゃない? 男の子より女の子の方が早いのは、ふつうらしいけど……)  カツンッ! カツンッ!  モモは何気なく小石を手に取っては、水面から突き出た岩にそれを放り投げていました。が、やがて彼女ははっと気づきました。 (これもだ……!)  モモの投げる小石は、向こう側の岩の、少しのずれもないまったく同じ場所に、何度も何度もくり返し当たっているのです。最近は日常生活や遊びで物を投げるようなことはありませんでしたが、男の子たちとまだいっしょに遊んでいたころは、彼らにくやしがられたものでした。 (……どれも一つずつじゃ、大したことないかもしれない……。でも、けががすぐ治ったことと合わせると……、どれもこれも、不気味にしか思えない……! わたし……、ほんとは、妖怪か何かなの……? そんなのって……)  モモはその目で見たことはありませんが、人だと思っていた者の正体が妖怪や化け狐であったとか、人や獣や物が年月を経て妖怪になったとかいう話は、いくらでも耳にしたことがあります。村の外、あるいは山を下りた先では、妖怪や鬼が増えてきているという話も聞きます。自分が今まで知らなかっただけで、本当はそういう者たちの仲間だというのでしょうか。 (わたし、どうしたらいいの……? 恐い……。自分で自分が、恐いよ……)  と、その時でした。突然冷たい風が吹いたかと思うと、木々の間から見える空が、みるみる黒雲におおわれ始めたのです。周りの鳥たちもさわがしくなりました。彼らは口々に、『早く帰ろう! 早く帰ろう!』と、あわててまくしたてているようでした。 (……そうだった。雨が降るんだった……。どうしよう……)  辺りは暗くなり、空気はどんどん冷えてきていますが、モモは川辺に座ったまま、考え続けていました。  けれどもやがて、モモはゆっくりと立ち上がると、自分の心に向かってこう言いました。 (……お母さん、きっと心配してるよね……。決めた。家に帰って、やっぱりお母さんに、ちゃんとわたしのこと、聞こう。……わたしは人間なのか、それとも、妖怪の一種なのか……。わたしは……、お母さんの子供なのか……)  彼女は切なそうに顔を上げると、ここで初めて寒さに気がついたかのように、ぶるっと身をふるわせました。その時です。  川の反対側の木々の奥に、人影が立っていることにモモは気がつきました。いったいいつからそこにいたのでしょうか。川が音を立てていることや、考えごとで頭がいっぱいだったことを差し引いても、なんの気配もなかったように彼女には思えました。 (だれだろう……? 山のふもとの人かな……?)  村の人間や、ふだん村に出入りする人なら、モモには遠目でも分かります。けれども今向こうにいる人は、彼女が知っている人ではないようでした。その人はだまったまま、ゆっくりとモモの方に歩いてきます。 (……ちょっと、不気味な人……。全身黒ずくめだし……)  と、そう思った直後、モモの背筋が凍りました。 (何あれ……! 人じゃ、ない!)  近づいてくるそれは、黒ずくめの服を着ているのではありませんでした。体全体が、闇のように真っ黒なのです。その黒い顔に目や鼻は見られず、体の表面は荒々しくささくれ立っています。そしてその頭には、大きな二本の、とがった角が生えていたのです。 (鬼……! 鬼だ……! そんなっ……、嘘でしょっ……?)  モモは恐怖でふるえて、立ちすくんでいます。その間にも、黒い鬼は木々の間をぬうようにして、少しずつ近づいてきます。鬼の体はどういうわけか、じわじわと大きくなってきているようでした。  すぐ逃げた方がいいと頭では分かっているにもかかわらず、モモは体を動かすことができません。鬼は二人をへだてている、小川のふちまでやってきました。すなわち、もう彼女の目の前までせまっています。  しかし、その時でした。雉のするどい鳴き声が一つ、川下の方から聞こえてきたのです。その瞬間、モモはまるで音に弾かれたかのように、ぐるりと向きを変えて走りだしました。無我夢中で足を回し、あえぐように息をしながら坂をかけ上ります。  走るモモの後ろの方で、ザブンと音がしました。鬼が川に入ったのでしょう。モモは走りながら川の方をふり返りました。  鬼はすでに、こちら側のふちに上がっています。鬼はその、目のない暗い顔で、モモを見つめたようでした。そして間もなく、彼女に向かって、鬼もまた走りだしたのです。
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