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「キャアアッ!」
モモは悲鳴を上げましたが、身動き一つできませんでした。犬の頭はすぐそこまで飛んできています。一瞬後には、自分の顔面は食いちぎられているだろう、と、彼女がそう思った直後でした。
グシャァッ!
犬の頭は目の前からそれて通りすぎ、気持ちの悪い大きな音が、モモのすぐ後ろから聞こえたのです。
モモにはけがも痛みもありません。彼女はおそるおそる後ろをふり返りました。すると、そこには先ほどの犬の頭が宙に浮いていて、そしてそのそばの地面に、のたうち回る、二本の太いひものようなものがあったのです。
それは蛇でした。信じられないほど巨大な蛇が、途中で二つにちぎられて、それにもかかわらずぐねぐねと暴れているのです。これも妖怪の一種にちがいありません。
モモがふたたび犬の頭の方を見ると、犬はベッと音を立てて、口から地面に何かはき出しました。彼女はようやく理解します。
(……この、犬の頭が……、わたしのすぐ後ろまでせまってた大蛇を、かみ殺したんだ……! そうしてくれてなかったら……、今ごろわたしは、蛇に飲みこまれてた……!)
大蛇の体は間もなく動きがにぶくなり、それからみるみる縮んで細くなっていきました。やがてほとんど糸のような細さになったところで、それは風に吹かれて消えてしまいました。
あっけに取られていたモモに対して、ここで例の犬がその頭を上げ、彼女をまじろぎもせず見すえました。モモはふたたび身をすくませます。
(ヒッ……! 蛇にやられなかったのはいいけどっ……、この犬の化け物は、わたしをどうするつもりっ……?)
モモはふつうの犬の考えていることなら分かりますが、犬の妖怪の心は、声として聞こえないようでした。が、ここで彼女は、あることに気づきました。
(……あれっ……。この犬……、しっぽふってる?)
犬はふわふわ浮きながらモモの周りをゆっくり回り、クンクンと一所懸命に彼女のにおいをかいでいます。そしてその頭の後ろから直接生えている白い尾は、せわしなく左右にゆれていました。
(……これって……。敵意があるんじゃなくて……、好奇心……?)
モモがそう思った時です。犬の妖怪が、口を開きました。
「きみ、なんだかいいにおいがするね」
「いっ……!」
犬の頭がすらすらと言葉を発したのに対し、モモはおどろきのあまり言葉をつまらせました。犬はふたたびクンクン鼻を鳴らすと、モモの胸の高さくらいまで浮き上がって言いました。
「うん、やっぱりいいにおいがする。おいしそうなにおいだ」
モモはうろたえながら犬に言います。
「やだっ……! あなたっ、わたしを食べるのっ?」
すると犬の妖怪は、ふつうの犬よりもずっと分かりやすく笑顔になって、こんな風に言いました。
「あははっ! いやだな! 今、きみのこと助けたばっかりじゃないか。ぼくは人間は食べないよ。けど、人間の食べ物はけっこう好きなんだ。きみ、何か持ってるだろう」
モモはようやく落ち着きを取りもどして言います。
「……あなた……、やっぱりさっきの大蛇から、わたしを助けてくれたんだね……」
「まあね。きみ、ぜんぜん気づいてないんだもんな。危ないとこだったぞ?」
犬の頭は顔をしかめて言いました。モモは息をつくと、申しわけなさそうにして言いました。
「ありがとう……。命の恩人だね……。ええっと……」
彼女はここで背中の荷物を下ろすと、地面にひざを突いて、ふくろの中を探りながら言いました。
「……食べ物なら、たしかに持ってる……。こんなものじゃ、お礼にはぜんぜん足りないけど……」
モモは今朝用意した、笹の包みを開いて犬に見せました。
「これかな? 良かったら、どうぞ。……残りごはん、それもキビのごはんを、ただこねただけだけど……」
要するに、キビ団子です。すると犬は、目をかがやかせて言いました。
「へえ~! おいしそうじゃないか! じゃあ、お言葉に甘えて、いただきます!」
モモは犬に向かって、おっかなびっくり団子を差し出しました。犬は飛びついて二、三個口に入れると、ちょっとかんですぐに飲みこんでしまいました。
「おいしいっ! ごちそうさま! きみ、料理の才能あるじゃないか!」
モモは苦笑いをしながら言います。
「料理……、かなあ、これ……。フフッ。まだあるけど、もういいの?」
「ああ。こう見えて、ぼくは小食なんだ」
モモは頭と尾だけの犬を見て返事に困りましたが、代わりに彼に、こうたずねました。
「……あなた、妖怪なんだよね……? あなたは……、その、いい妖怪、なの……?」
すると犬は少しきょとんとした後、何気なく言いました。
「いいとか悪いとかはよく分からないけど、さっきの大蛇みたいに、人をおそうやつとはちがうのはたしかだな。ぼくみたいなの、犬神明神、って言うらしい。ぼくとしては犬のころから、やってることは大して変わってないつもりだけどね」
「……いぬがみ、みょうじん。……犬だったの? その、昔は……」
「っと……。ああ……、何十年前か前はね……」
モモの質問に、犬神明神はばつが悪そうに答えました。
「どうしたの? 大丈夫……?」
モモはそう言いつつ、団子を下ろして犬の顔をのぞきこみました。彼はしばらくだまったまま視線をそらしていましたが、やがて声を落として、モモにこう言いました。
「……聞いてもらっても、いいかい……?」
モモはとまどいながらも、こくりとうなづきました。するとさらに間を置いてから、犬はさびしげに話し始めたのです。
「……ぼくは……、北のムツの国の、猟師の犬だったんだ……。ある時、飼い主とぼくが山に入ると、まさにさっきみたいに、飼い主の背後から、大蛇がおそいかかろうとしててね……。ぼくは飼い主に向かって、必死でほえたんだ。『後ろ後ろ!』ってさ。……けど、その人には伝わらなかった。……それどころか……」
犬は地面を見つめました。
「……あの人はぼくのことを、うるさいって思ったのか……、それとも、頭がおかしくなったと思ったのか……。刀を抜いて……、ぼくの首を、はねたんだ」
モモは青ざめ、息をのみました。犬はうなだれたまま、さらに言います。
「……だけどどういうわけか、ぼくはそれでも、死ななかった。……あ、いや、そんな風に言って良ければだけどね……。頭だけになったぼくは、そのまますぐに、飼い主におそいかかろうとしている大蛇に、飛びかかって食いついたんだ。ご主人……、飼い主は、危ないところで助かった。ぼくは大蛇と山を転げながら格闘して、間もなくそいつをたおした。それで、元いた、飼い主の所までもどったんだ。……けど……。その人はすでに、そこにいなかった。……においで分かった。その人は山を下りたんだ。首だけになったぼくは、住んでいた猟師小屋にもどって、長いこと待った。何日も、何日も……。けど、彼は帰らなかった。……ご主人様は……、ぼくに会いにもどることは、なかったんだ……」
なみだを流して聞いていたモモは、ここでたまらず犬の頭をだき寄せました。
「なっ……!」
犬はとまどいますが、モモは泣きながら彼をだきしめて言います。
「恐かっただけ……。あなたの飼い主さんは、ただ恐くなってしまっただけなの……。山を下りた時も……、あなたを、はねてしまった時も……。ただただ、おくびょうで……、恐れに、飲みこまれてしまったんだと思う……」
犬も、なみだを流したようでした。そうしてしばらく後、彼は声をふるわせて、モモにこう言いました。
「……どうしてかな……。こんな姿じゃ、人間に見られたとたんに恐がられるだけなのに……。気がつくと、ぼくは人里に近づいてる。人間をおそうやつがいないか、気にして辺りを、かぎ回ってるんだ……」
モモは胸がしめつけられる思いがしました。この犬はおそらくずっと、ほとんど人に知られることなく、人を外敵から守ってきたのでしょう。
と、その時。モモの頭に、ある考えが浮かびました。初めはぼんやりとしていたその考えは、間もなく彼女の中で、小さな決意になりました。
モモはなみだをさっとぬぐうと、犬に向かって、こんな風に言いました。
「わたし……。あなたを、助けたい……。あなたはずっと、人を助けてくれてたんでしょう? ……そんなあなたの、手助けをしたいの、わたしは……」
犬はモモの腕の中で頭をよじると、彼女の顔を見て、まゆをひそめながら言いました。
「……そういえば、聞きそびれてたね……。きみみたいな女の子が、いったいどうして、一人でこんな所に……」
そこでモモは、自分のことや昨日起こったこと、母親の遺言などについて、一つ一つ、犬に語って聞かせたのでした。
モモの話を、犬は目を丸くして聞いていました。やがてモモが語り終えると、犬は深く息をついて言いました。
「そうか……。いろいろと、気の毒だったね……。すごいな、きみも……、きみのお母さんも……。ただ者じゃないよ」
モモは切なそうにほほえんで、犬に言います。
「……それで、ね。わたし、思ったの。あなたみたいに、かげながら人の周りの鬼とか妖怪とかを退治できれば、わたしはお母さんとの約束を、果たせるんじゃないか、って……。もちろんまずは、わたし自身が生きていく見通しが立たないと、だめだけど……」
犬は考えながら言います。
「そうだな……。まだ冬が終わったばっかりで、周りに食べ物も少ないし……」
「……それで……、どう、かな……? わたしに、手助けをさせてくれる? 犬神明神さん……」
モモがおそるおそるたずねると、犬神明神はきっぱりと言いました。
「いや、それはできない」
「えっ……」
モモはがっくりと肩を落としました。が、すぐに犬は笑って言います。
「あはっ、待ちなよ! ぼくは犬だ。人間が犬の手助けをするっていうんじゃ、あべこべだ。モモ……。ぼくがきみを助ける。ぼくにきみの、お供をさせてほしい」
それでもモモはとまどいます。
「そんなっ……。お供なんて、わたしなんかが、えらそうな……」
と、ここで彼女は何か思いついて、気はずかしそうにして言いました。
「……じゃあ……。トモはトモでも……、友達の友、は……?」
犬は笑いました。
「あははっ! いいよ! じゃあそうしよう! ……っと、そういえばもう一つ。ぼくのことさ、犬神なんとかって呼ばないでよ」
「えっ?」
「名前があるんだ。『小白丸』。そう呼んでほしい」
「フフッ! 分かった。じゃあよろしくね、小白丸」
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