キミとこれから

1/1
1887人が本棚に入れています
本棚に追加
/16ページ

キミとこれから

 このバーに通い詰めてどれくらい経つだろうか、もうそろそろ9月になる。あの日から3ヶ月近く経った。  もういい加減、彼女のことは諦めろ。そう言われている気がしていた。  やはりあの日見掛けた彼女は、誰かとの逢瀬でこのホテルに来ていたのだろうか。そう思うと胸が張り裂けそうだった。  ウイスキーを流し込むと、喉がカッと熱くなる。  彼女にどんな事情やワケがあっても、初めてあの滑らかな肌に触れ、甘い迸りを味合わせたのは自分だと、凛太郎は湧き上がる惨めな独占欲に溜め息を吐く。 「所詮は店子と客か……龍弥の言うとおりだな」  どれだけ不毛な想いなのかは分かっているが、それでも凛太郎はもう一度でいいから彼女に会って話がしたかった。  金曜のバーはカップルが目立つ。  夜景が楽しめるのもこのバーの売りだ。窓際のカップルシートは埋まり、他のテーブル席もほぼ全てが埋まっていた。  今夜も彼女は現れないだろう。いよいよ諦めないといけないんだな。潮時なのかも知れない、凛太郎はウイスキーを飲んで、グラスを傾けて氷を揺らす。  ふと隣に座って談笑していたカップルが席を立った。  彼女とそんなふうに酒を飲んで他愛のない話がしたかった。何に興味を持ち、どんな季節が好きで、休日をどんなふうに過ごすのか。些細なことで良い。声が聞きたかった。  グラスの中で揺れる小ぶりになった氷を揺らしていると、ふと自分を見つめる視線に気付く。  カップルが居なくなって、少し離れた席に目が行く。気のせいだろうか、女性はグラスワインを飲んでいた。  あのシルエットは……。  凛太郎は目を見張る。姿勢良く椅子に座り、黒い髪の毛をアップにした横顔は、薄暗い店内でも輝いて見える。  彼女はカウンターの奥のボトルを眺めるように、ゆっくりとグラスを傾けて、ワインを飲み、考えごとでもするように少し顔を傾けて上を見上げている。  居てもたってもいられず、凛太郎はカバンとジャケットを持って席を立ち、右隣の席に荷物を置くと、切り出した。 「……お隣よろしいですか?」  彼女はこの声を覚えているだろうか。タロを覚えてくれているだろうか。  返事をせずに黙り込んでしまった彼女に、凛太郎はお邪魔かな?と身を引くような声を改めて掛ける。 「いえ、どうぞ」  小さな声だった。  断られなかったことに安堵すると、堪えきれず手を伸ばして彼女の手に静かに重ねる。 「貴方を探してた。ずっと」  手の甲をゆっくりと指で撫でる。  何も答えない彼女に、それでも凛太郎は語りかける。 「たまたま見掛けたあの晩から、今日までここに通い詰めました」  彼女の手をなぞる指に熱がこもる。  けれど何の返事もない彼女は自分を忘れたいのかも知れない。  こんなところで待ち伏せして、気味悪がられていてもおかしくない。  凛太郎は身が裂かれるような思いで彼女に切り出す。 「嫌ならすぐに消えます。貴方のことも忘れます。けれど一縷の望みに掛けてお願いします。顔をよく見せてくれませんか」  凛太郎の切ない声に彼女は僅かばかり動揺した様子を見せる。  こんなにも彼女に執着しているのは自分だけなのだ。何も反応を見せない彼女に縋るように声を掛ける。 「……ダメですか」  駄目押しのように凛太郎は彼女の手に掌をかぶせ、上から指を絡めて握る。  ビクリと指先を震わせて、彼女は恐る恐る凛太郎を見る。やはりそこには彼女が居た。 「やっと会えた」  あの日と変わらない美しい彼女が凛太郎を見つめている。 「あの、私……」 「会いたくなかったと思う。なのにごめんね」  彼女は切ない表情で凛太郎を見る。ああ、この表情。この切なくて儚い眼差しにあの日の記憶が一気に蘇る。 「いえ……」 「こんなところにまで会いに来て、貴方を探して、ごめんね」  凛太郎は謝ると、彼女から手を離してウイスキーを飲む。 「どうして探したりしたんです」  彼女は動揺しながら、声を絞り出して凛太郎の顔を見つめる。 「どんなに焦がれても、俺は貴方の名前すら知らない」  凛太郎は切ない声で彼女に話し掛ける。 「どんなに諦めようと思っても、目を閉じると貴方が脳裏に焼き付いて離れなかった」 「それは……」  彼女は困惑して、けれど顔を赤らめて少し俯く。 「始める前に思い出になるのは嫌だった」  凛太郎は再び彼女の手を上から握りしめる。あの時と変わらない華奢な手だ。 「そんな自分勝手な理由ではダメかな」 「私……」  彼女が言い淀むと、凛太郎は指を絡めてしっかりと手を重ね、祈るようにお願いと呟く。 「ごめんね。そう言われても困るよね」 「あの、違うんです!」  彼女は場にそぐわない大きな声で否定した。少し驚いた凛太郎は彼女を見つめて続く言葉を待った。 「私……思い出にして、大切に心に留めておくつもりでした」 「違ったの?」 「出来なかった。とても素敵な思い出だけど、思い出すと苦しくて、思い出さないように蓋をして、だけど自分の身体のどこを見ても貴方の影がチラついて」 「嫌だった?」 「だって……貴方にとっては、私はたくさんの客の中の一人でしかない。不毛でしょ」  ああ、そうか。まずはその誤解をとかなければ。 「ゆっくり話がしたい。二人きりで。ダメかな?」 「ここでは話せないの?」 「できれば順を追ってきちんと話したい」  そう言った凛太郎の顔を不思議そうに見て、彼女が小さく頷くのを確認すると、凛太郎は鞄とジャケットを持ち、立ち上がった彼女の手を取り、二人分の支払いを済ませてバーを出る。  そのままスマホを取り出すと、部屋の手配を済ませ、エレベーターでフロントを目指す。 「手、ちゃんと繋いでも大丈夫?」 「あ……うん」  恥じらいながらも答える様子を見て、凛太郎は指を絡めて彼女の手を握る。汗ばんでいるのはどちらの手だったのだろうか。 「……タロぉ」  夢にまでみた萌華が腕の中に居る。寝言なのか自分を呼ぶ彼女を愛おしげに見つめ、頬に掛かる髪を掻き揚げると、その頬にキスをする。  出会いは複雑だったが、これからお互いに想いを寄せて気持ちを育んでいけば良い。  凛太郎は萌華を抱きしめて、明日はどこにデートしに行こうかと、これから始まる二人の関係に期待を膨らませた。 おわり
/16ページ

最初のコメントを投稿しよう!