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ワークライフバランス
「城ヶ崎部長は凄いですよねぇ」
「ん?」
萌華はキーボードを打つ手を止めて、くるりと椅子を回し、猫撫で声で擦り寄ってきた浅沼瑛太に向かい合う。
「美人でスタイルも良くて、おまけに仕事も出来……」
「で、なんのミスをしたの」
「申し訳ありません!強化ガラスの納期スケジュールを誤って伝えてしまって、当日に現物が届かないかも知れません」
「……浅沼くん、かも知れませんとはどういう判断での結論なのかな」
「あ、え……いや、あの」
「届くか届かないのか、どっちなの!」
萌華の地鳴りのような低い声がフロアに響き渡る。
「と、届きません」
「スケジュール誤差は何日」
「い、一ヶ月……です」
「はあ」
コイツまたやらかしやがった。萌華は盛大に溜め息を吐くと、すぐに工場に連絡して現場に確認をする。
城ヶ崎萌華、三十七歳。身長168センチ。勤務歴一六年目の大手商社、呉竹物産トレード部門で、気が付けば商品企画部長のポストに就いて二年目になる。
「お世話になっております。呉竹物産、商品企画部の城ヶ崎で御座います。水戸部さんにお取り次ぎ願えますか?」
傘下企業で取引先でもあるマイン工務店、工場部門長、水戸部浩三に直接電話をするのはこれが何度目だろうか。
『おう女王、今度はどうした』
水戸部は若手の頃から世話になっている大先輩だが、部長に就任してから萌華を女王と呼ぶようになった。
「水戸部さん申し訳ありません。再開発エリア用の強化ガラスの件ですが、納期の誤差一ヶ月を出してしまいました」
『あー、あの坊ちゃんの持ってきた案件か』
「ええ。今回のロスは最悪なことに一ヶ月です。ご無理は承知で申し上げますが、最速で納期を早めていただくと、いつでの対応が可能ですか」
『落ち着け女王、お前が事前連絡くれたろ。誤差無しで稼働してるよ』
「してました?」
『ああ。小坊主前もやらかしてるからな。アイツが来たその日にお前からちゃんとした納期を確認してる。問題ない』
萌華はデスクの卓上カレンダーをめくり、水戸部と納品日の確認をする。
浅沼は萌華の隣で固まったまま動かずに、その様子を見守っている。
「この度は誠に申し訳ございません」
『いや、お前も大変だろうが、根気よく育てろよ』
「お気遣い感謝いたします」
受話器を静かに置くと、般若の形相で浅沼を睨み付ける。
今回は自分のフォローのおかげで周りに迷惑を掛けずに済んだが、浅沼の失態はまたそれとは別なので特大のカミナリを落とす。
浅沼を叱りながら、他の案件も複数同時進行で忙殺されていた時期に、よくぞ先手を打ってくれていたと自分に拍手したかった。
壊れたオモチャのように何度も頭を下げて詫びる浅沼を、もう良いと片手であしらうと、萌華は再びキーボードに走らせる指を早める。
フロアがピリついている。またやってしまった。
萌華はチャットを開くと、同期でマーケティング部長の星野圭一と、同じく商品企画に在籍する高峰佐知子に「おやつタイム」と短く打つ。
二人からすぐに「了解(笑)」と返事が来たら、星野がデスクの島向こうで立ち上がり、パンと手を叩く。
「はーい。みんな一息入れようか。パティスリー・レ・ビアンにお使い行きたい人〜」
人好きする笑顔で星野がフロアを見渡すと、佐知子が真っ先に手を挙げる。
「はいはーい!行ってきまーす」
これはいつもの恒例行事である。三人のうち誰かがフロアの空気を変えた時、残りの二人が何かしらの形でフォローを入れる暗黙のルールである。
佐知子は財布を持つと、荷物待ちと称して浅沼とその同期の番匠を伴ってフロアから出て行く。きっと萌華の愚痴を聞いてやるのだろう。
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