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 ここに至るまでの経緯を話し終えると同時に、彼女が頼んだクリームソーダとブルーマウンテンが運ばれてきた。 「そんなことだろうと思ったわ」  ふてくされたように言うと、彼女はクリームソーダの方に手を伸ばした。僕は自然な流れでブルーマウンテンを手に取ろうとした。するといきなり手の甲を叩かれた。 「それも私のよ」 「じゃあ僕のは?」 「水があるでしょう」  彼女はブルーマウンテンを自分の領域に移動し、おいしそうにクリームソーダのバニラをつまみ始めた。  それにしても、今更ながら彼女の二面性には驚かされた。  屋上で会ってから下校する途中までは、イメージ通り可憐でおしとやかな佇まいだったのに、学校から離れるにつれて化けの皮が剝がれてきた。  これが彼女の本性。彼女は猫をかぶっていたのだ。  彼女が半分くらいクリームソーダを食べ終えるのを蛇の生殺しのように見せつけられながら、僕はきっとこれから本格的に振られるのだろうと思っていた。悪ふざけで告白したことがばれてしまったのだから、これ以上彼女が僕と関わる理由はない。 「君を傷つけたことは本当に申し訳なく思っているから、もう勘弁してくれないかな」  彼女は口元にバニラをべったりとつけながら、僕を訝しそうに見つめていた。  その怪訝そうな顔もそれはそれで魅力的だったが、今の僕には山で鉢合わせたヒグマのようにしか見えず、最初に出会った時とは違い恐怖で胸が高鳴っていた。 「何を言っているの? 私はあなたの告白を了承したのよ。だから私とあなたはもう恋人関係なの」  おかしなことを言いながら、クリームソーダをかきこみ、彼女は次にブルーマウンテンに砂糖とミルクを入れた。 「君は僕のこと好きじゃないでしょう?」 「ええ。赤血球の厚さほども好きじゃないわ」  赤血球の厚さはおよそ2マイクロメートル。1マイクロメートルは100分の1ミリメートルだから、赤血球の大きさは0.002ミリメートル。  要するに、彼女が僕のことを好きだという要素はほぼ皆無なので、ここまでくるともはや嫌いだと言われているのと同じだ。かなり遠回しな表現だが、正直かなり堪える。これが尊の言っていた恋愛の痛みというものなのだろうか。ちょっと違う気がする。  しかし好きでもないのに付き合うなんて、彼女は一体何を考えているのだろう。 「告白を受けたのにはちゃんと理由があるの」  ティースプーンを三周ほどさせて受け皿に置き、そっと一口だけ口に含むと、ため息とともに彼女は嘘の告白を了承した理由を話し始めた。 「私ね、事情があって今おばあちゃんと二人で暮らしているの。でもおばあちゃん、最近体調が悪くて元気がないのよ。それで私も家事とか炊事とかできることは全部自分でやって、おばあちゃんに楽をしてもらおうと思って頑張っているんだけど、全然だめで……」  家での彼女は信じられないくらい不器用で、料理などもできず掃除もやる前より汚くなってしまうので、家事に関してはほぼすべてそのおばあちゃんに任せていたらしい。 「自分がこんなに不器用だなんて思いもしなくて、ある時それで落ち込んでいた私を見かねておばあちゃんが言ったの。伊織ちゃんにもいい人がいたら安心なんだけどねって」  それから彼女が汚名返上とばかりに家事を手伝っても逆に仕事を増やすだけで、その度におばあちゃんは孫娘の未来への不安をしげしげとこぼすらしい。 「だからそんなダメな私でもしっかりしたパートナーがいて、尚且つそのパートナーは、私の悪いところをちゃんと理解してくれているってところをアピールしたいのよ。そしたらおばあちゃんも安心すると思うの」  彼女は湯気の乏しくなったブルーマウンテンを一口飲んだ。辺りを見回すと、いつの間にか店内の客は僕ら二人だけになっていた。 「……その役を僕がしないといけないってこと?」  彼女はいじらしい笑みを浮かべながら、そうよと言った。 「もちろん、ずっとじゃないわ。私はやればできる人間なの。だから私がおばあちゃんを安心させるくらいの技術と信頼を手に入れるまで、あなたには恋人のふりをしてほしいの。あなたは一見すると不器用そうだけど、実際はどうなの?」 「君はさらりと失礼なことを言うね。ちなみに掃除は好きだし、料理も簡単なものならできるよ」  僕の家は共働きで、よく洗濯や風呂の掃除を任されたり、遅く帰ってくる父のために簡易的な夜食を作ってあげることもあった。 「でも仮に僕が家事や炊事を人並にできたとしても、君のおばあちゃんを安心させるような人徳のある人間ではないよ。だから僕なんかよりもっと賢そうな人を代役に頼んだ方が賢明だと思うけど……」 「確かにあなたはちょっとさえないけど、見方を変えたら落ち着いていてしっかりしているように見える。変に元気すぎるよりいいと思うわ。おばあちゃんが気に入りそうなタイプよ」 「それは褒めているの?」 「もちろん」  褒められているのかどうかは別として、どうやら僕は彼女のお眼鏡にかなったらしい。でもどう考えても、僕にそんな大役はできそうにない。 「……やっぱりできないよ。君はとても美人だし、僕なんかとは釣り合わない。君にはもっとふさわしい人がいると思うよ」  自信なさげに言うと、彼女は首を横に振った。 「ふさわしいのはあなたよ」  彼女は芯の通った声で言うと、形のいい大きな瞳で射貫くように僕を見た。それは生徒会長の彼女が、ステージに立った時に見せる凛々しい表情だった。 「実は私、今まで二人の人と付き合ったことがあるの。一人は大学生で、もう一人は別の学校の男子なんだけど――」  彼女はぽつりぽつりと昔の交際相手の話を始めた。  一人目の大学生は車を持っていて、デートはもっぱらドライブだったらしい。だからたまに夜遅くに帰宅することもあり、その度におばあちゃんに心配を掛けたそうだ。二人目の彼は同い年の男子で、常に連絡を取り合っていないと気が済まないタイプだったそうで、彼女は慣れない家事と束縛彼氏との間に板挟みされて参っていたそうだ。 「その二人のことは好きだったわ。だから二人ともおばあちゃんに紹介したの。でも、二人とも最初はとても愛想よくしてくれていたけど、次第にうちに寄り付かなくなっちゃって。若いから街で買い物したり、遊んだりしたかったのでしょうね。でも好きだったからこそ、おばあちゃんのことも大切にしてほしかったし、私の心境も分かってほしかったわ……」  結局最初の大学生の彼とは一か月、二人目の彼とは半月も持たなかったそうだ。それから彼女は今日に至るまで、交際を申し込まれても断っているらしい。 「あなたは今まで付き合った人とも、私に告白してきた男子ともジャンルが違うから、きっとうまくいくと思う。だからこの通り。私に協力して」  手を合わせて懇願する彼女を見ても、やっぱり僕にはできないだろうと思った。いくら何でも荷が重すぎる。  しかし僕の胸中を先読みしたのか、彼女は恐怖の言葉を言い放った。 「ちなみに断ったら、あなたから悪ふざけで告白をされてひどく傷ついたと友達に泣きつくから。そうなったらあなたは、女性優位の我が校で私を慕う皆から激しく糾弾されることになるわ」 「なんて卑劣なことを……」  このことを口外されるのは非常にまずい。彼女は可憐でおしとやかで、花でも愛でるようなイメージを持たれているから、僕が彼女に脅されたと叫んでも誰も信用してくれないだろう。 「おとなしく私に従うか、友達から避難囂々の集中砲火を受けるか、好きな方を選びなさい。何だったら、生徒指導部の先生にあることないこと吹き込んで、あなたの夏休みを消滅させることだって……」 「わ、分かった。従うから、従いますから!」  彼女は目じりを垂らして、すべて計算通りといったようにいやらしく口角を上げた。 「じゃあ、交渉成立ね」  彼女はごちそうさまと言って、帰り支度を始めた。  嘘の告白がこんなにも簡単にばれて、おまけにそれを理由にゆすられてとんでもない契約を交わされ、今日は本当にいろいろなことがあった。  めまぐるしい一日に辟易していると、鞄を持って立ち上がった彼女は僕の方を見下ろして、微笑を浮かべながら手を伸ばしてきた。 「ちゃんとあなたにもメリットがあるように計らうから、あなたは黙って私に従っていればいいの。だから、改めてよろしくね。月島歩くん」  その笑みを見た瞬間、不安で真っ黒に塗り固められていた胸の中の世界に、一筋の光が差したような気がした。  僕はその白く細い手をそっと握り、控え目に頷いた。悪魔の化身のような彼女にも、少しだけ良い所があるのかもしれない。 「あと、これよろしくね。か・れ・しさん」  彼女は僕の手に伝票を握らせると、颯爽と喫茶店を出て行った。  放心状態で彼女の背中を見送っていると、グラスを洗っているマスターと目が合った。マスターはわざとらしい咳払いをして、気まずそうに視線をそらした。
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