オーバークロックの5分脳内

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「うぅ……あと5分……」 「何回目なのさ! 次は起こすからね!」 お母さんの決まり文句が鼓膜をビリビリと震わせる。 顔をしかめながらも、布団の中から出ることが出来ない。一本道の迷宮だ。 微睡みの冬の朝は同じ時間でも、暗く冷たい。 冷えきった部屋の気温は、私の末梢神経を蝕んで床に臥すことを強要してくる。 かろうじて動いている頭も、無理矢理四肢に電気信号を送ってしまえばいいことを理解はしているのだけれど、理解と行動は必ずしも一致しない。 そうして無意識領域に片足を突っ込んだ状態で、私の大脳新皮質は思索に耽る。 朝起きてから二時間限定のオーバークロックされた思考力を「春眠暁を覚えず」とか「トンネルを抜けなくてもここは雪国だ」とか無駄なセリフに還元していく。 この間わずか5秒。 まだまだ私も捨てたもんじゃない。 残り4分55秒。 夏になったら暑くて暑くて眠れない。 体は「暑い、暑い」とバタバタと罠にかかった鳥のように動くけど、頭は全く働かない。 冬は体に熱は灯らない。凍えた手先は麻痺毒に蝕まれたように穏やかだ。ならば考えよう地の果まで。 そもそも、私はこの状況を楽しんでいるのではないか? 起きよう、起きようと思っても、冬限定の出来事を存分に楽しむ、という建前も捨てきれずにいる板挟み。 その板挟みを楽しむ、という入れ子構造を愉快に思う。 5分間の間に、なんだか素晴らしい体験をしている気になるが、5分経ったら全てを忘れるだろう。 妄想なんてそんなもの。だからこそ考えられる。 無意識下の成長期だ。 根っこが見えない土の中に伸びるように、私の思考力も今この時に伸びている。そんな不思議な万能感。 まやかしだろうか。いや事実である。 刹那を永遠に引き伸ばして私は思考するからである。 そう。この超加速された思考速度は人間の限界へと迫ろうとしている。たったの5分のうちに私は昨日読んだ本をもう一度反復し、 空の上から見た夢の世界の美しさに涙を流す。 だが急に、私は外を覆う白雪のように純粋な冷静さを取り戻す。 自分の意思とは真逆に起きれないことは、一種の臨死とも言えるかもしれない。 そう考えると途端に、死が身近なものに感じられるようになった。 虚脱。 知識のインプットもろくにしていない空っぽの脳で、考えられる事象には無視できない空隙が存在する。 インプットを私はしているだろうか。 否。 雨が天から地に墜ちるように、私もこの醜い世界に無邪気さと純粋性という羽根をもがれ失墜した。 空中落下は楽しいものだ。 地面がどんどん近づいてくる。 景色がギュンギュン臨場感。 近所の神社の御神木が見えた頃に私は焦りを覚えた。 飛ばなければ。 しかし体は重力の波に引っ張られて、もがけどもがけど脱することができない。 地面に叩きつけられた。 仰向けに寝転がって回復を待つしかなくて歯がゆい。 幸い大きな怪我はなかったけれど、雲が、あんなにも、遠い。 それは絶望だ。 一番賢かった幼少期から、進歩するどころか堕落を極め、落ちることに快感すら覚えてしまった。 気がついた時には、風に乗った友は上昇気流に乗って地平線の手前で豆粒のごとき大きさになっていた。 「待って」 その声は届いたのだろうか? 神社の滝を見てみると、池の中には無数の鯉がひしめき合っていた。 滝を昇る何匹もの鯉。 頂上まで昇りきってなお彼らは満足出来ずに、龍へと姿を変えて、雲の上まで昇ろうとする。 悔しい!悔しい!悔しい! そこは本来なら私がいるはずだった場所なのに。 私は重力に縛られて。 走ることが精一杯だ。 死ぬ寸前に私は何を考えるのだろう。 これまでの人生への後悔か、満足か。 それとも可能性0の未来を夢想するのか。 考えろ。今ここで。 無理だ。 5分以内に結論なんか出るはずがない。 だが、5分がタイムリミットだ。 これを過ぎればまた『私』は0に戻る。 それまでに1にしなければ……私は量子存在ではなく、古典物理学で説明できる、否、古典物理学のスピードでなければ今を生きることの出来ない愚かな虫けらなのだ。0を1に。0を1に。0を1に。 手段は?方法は?根拠は? そんな言葉が、私でない私から飛び出て矢のように肩口に突き刺さる。 それは左肩を貫通し、左腕はだらりと垂れ下がる。 傷口抉れ、ぽたりぽたりと血を流す。 痛みよりも寒さと重さが左半身に負荷をかけた。 「つらい、つらい」 夢の中ですら。こんなにつらいのならば。 今ここで。電池を抜いて。凍死してしまおうか。 その行為を世の人たちは自殺と呼ぶのだろうか。 その途端、全てがどうでもよくなって、どうでもいいのなら楽しいことを考えようと、晴れ晴れとした気持ちで思う。 布団から出られないのなら、幽体離脱してしまえばいい。 えい。 力をこめて起き上がると、布団の中から顔だけを出した私が眠そうな顔で唸っていた。 つらそう。 私の知ったことではないのだけれど。 さてどこに出歩こう。 美術館を巡ってみてもいいかもしれない。 そうやって世界のあちこちを行き来していると、お祭りがやっている島に行き着いた。 島全体が活気に溢れていた。 島の人々が思い思いの屋台を出している。 私は、香ばしい匂いに誘われて、フラフラとそちらに手繰り寄せられた。 へえ。珍しい。こんな屋台もあるんだ。 あまりお祭りでは見かけない屋台のお兄さんに注文をした。 「すみません。イカ焼きください」 「あいよ!」 お兄さんは大きなイカのお尻から割り箸をスゴッと入れてしっかりと、タレに付けて鉄板でじゅうじゅうと焼き始めた。 まだかな。まだかな。 そわそわしながら待っていると、 屋台のお兄さんは、ゲソが長すぎて割り箸の長さを超えてしまっているイカを発泡スチロールのトレイに入れてくれた。 「へいおまち! おや?お客さん見ない顔だね?観光かい?」 「まあ、そんなとこです」 「だったら、島の隅々まで見てってくれよ! 忘れられない旅になるようにな!」 「ははは……」 残念ながら持ち時間はたったの5分。 このイカを食べるのが精一杯だ。 ゲソが手を汚さないように、ゲソから平らげる。 ぱくぱくぱくぱく。 そうして、全ての足がなくなって、なんだか淋しくなったイカを割り箸で持ちあげる。 空には満月が浮かんでいた。 「きれいだね。本当に」 ところどころ生焼けだったけれど、この味はきっと忘れないだろう。 私は穏やかな心持ちで星空を見上げた。 土星の輪が見えた。 正と負の、メビウスの輪を行ったり来たり。 やめだやめだ。 考えるのはやめだ。 もうひと眠りして思考をリセットするか。 そうして夢見心地に入ったところで、繰り返される現実。 「いい加減起きなさい! 遅刻するよ!」 あまりにも不快なタイミングで起こされて、私はまた口走る。 「うぅ……あと5分……」 まだ動けない。
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