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 花火大会の日なら、人通りも多いだろうと踏んで、わざわざ東京のど真ん中へ、ギターを担いで行ったことがある。僕の髪の毛に、赤いメッシュが入っていた頃の話だ。  まだ日が高い時間にも関わらず、駅前の大通りは、すでに浴衣姿の男女で賑わっていた。立っているだけで、脇と背中から汗が滲み出るような、暑い日だった。人混みの中を、泳ぐようにかき分けて、どうにか歌うことのできるスペースを確保する。  我ながら、歌はあまり上手くはなかった。  音痴というわけではないが、売り物になるレベルには到底及ばない。その自覚は充分あったし、人前で歌うことに対する躊躇いだって、もちろんあった。  すっ、と鼻から息を吸い込むと、砂ぼこりの焼ける、夏の匂いがした。  蝉の鳴き声にかぶせるようにして、ギターの弦に指を置く。数年前、中高生を中心に流行し、今では活動休止となってしまった、とあるバンドの一番のヒット曲。ノスタルジックな前奏は、活気に溢れた大通りに、まるで似つかわしくなくて、申し訳ない気持ちになる。  恥ずかしくなるくらいに、ただ愛を叫ぶだけの歌を、僕は歌い続けた。  行き交うひとりひとりに目を凝らしても、足をとめようとする人は、ひとりもいない。好奇の目を向ける人よりも、どちらかといえば、迷惑そうにジロリとこちらを睨む人の方が多くて、心の中で、すみません、と謝りながら、それでも休みなく歌い続ける。首筋を何度も汗が伝った。  歌う時、僕は努めて頭の中を空っぽにする。余計なことは、考えない。そうでもしないと、押し潰されそうになる。後悔とか、エゴとか、自己嫌悪だとか、そういったネガティブな感情に、飲み込まれそうになる。  日が落ちて、人通りがだいぶ少なくなったな、と思った時、太鼓を打ち鳴らしたような爆発音とともに、遠くの空が、赤く輝いた。くぐもった歓声が、耳に届く。微かに、煙の匂いが漂ってきた。  ギターから手を離し、うつむく。  今日も、何の成果もなかったなぁ、と思った。まぶたと唇がひくついて、防衛本能のように、顔が勝手に苦笑の表情を作ろうとする。  仕方ないよ。こんなの、賭けみたいなものなんだから。心の中の僕が、のろのろと自分を慰め始める。  連なる乾いた爆発音が聴こえるたびに、わずかに足元が明るくなる。赤、緑、オレンジ。そのぼやけた光に照らされた場所に、散々踏みつけられて、よれよれになった花火が落ちていた。  しゃがんでつまみ上げると、力なく折れ曲がってしまう。線香花火のようだった。  ポケットからライターを取り出したのは、ほんの気まぐれだった。  紫色のふやけた花火の先っぽに、細長い橙色の火を灯す。瞬く間に、激しく燃え始めた炎が、やがて艶やかな丸い光の玉を形作っていく。 「どっちが長く持つか、競争ね!」  子供の頃、夏になると、毎年公園で花火をした。  終わったらちゃんとバケツに捨てるのよ、という母の言葉に適当に相槌を打ちながら、手持ち花火にマッチで火をつけてもらう。  ヨルは、きゃあきゃあと騒がしかった。  色とりどりの火花と同じくらい目を輝かせながら、頑張れ頑張れ、と花火を応援する。まるで、胸の中で暴れるわくわくした感情が、手持ち花火の激しい光になって、噴射されているみたいだった。そんなヨルを、僕は保護者にでもなったような気分で見守っていた。  小学校生活最後の夏休みの、最終日だったと思う。  僕が、線香花火の最後の一本に火をつけて、暗がりにしゃがんだ時、ふいに強い風が吹いた。  あ、と言う間もなく、ぶら下がった火の玉が大きく揺れる。落ちる、と思ったその瞬間、横からすっと手のひらが伸びてきた。 「大丈夫だよ」  風から守るように、ヨルの小さな白い手が、花火を包み込む。煙の匂いの染み込んだ頭が、僕の肩に触れ合うほどすぐ近くにあった。 「大丈夫。頑張れ」  その言葉に励まされるようにして、小刻みに震えていた光の粒が、息を吹き返すように、少しずつ、少しずつ大きくなっていく。  まるで、魔法を見ているかのようだった。  茜色の火花が、パチ、と弾けたのを合図に、ヨルの手の中に、美しい花が咲いた。暗闇を切り裂いて、続けざまに、咲いては消える炎の花。火花のひとつひとつの輝きが、まるで意思を持っているかのように、強く、激しく、踊っている。  顔を上げると、ヨルが、僕を見つめていた。胸が痛くなるような笑顔だった。  強く、風が吹いた。  慌てて左手を伸ばした時には、もう遅かった。  花火の先っぽに生まれたばかりの、美しい光の玉は、あっけなくアスファルトの上へと落下し、じゅ、と音を立てて消えた。  僕は、片膝をついたまま、花火の燃えかすから細く立ちのぼる、苦い煙の匂いを嗅いでいた。  あの夏の夜の虚しさを、やけにはっきりと覚えている。
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