第五話 日常

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第五話 日常

新社会人にとっては全てが新鮮であり、かつ不慣れであった。 その上、今や世界全体が不慣れな生活に突入していた。 新しい生活様式。 ミホにとっては、幾重もの新しいが積み重ねられてしまったのだ。 あっと言う間に過ぎ去った四月。 そして不自然な連休を過ごす事となった五月。 しかしミホは、他の新入社員達よりは落ち着いて過ごせていた。 住み慣れた界隈に、新しい知り合いが出来た為である。 同僚の武田、そして上司の片山主任。 ソーシャルなディスタンスは保たれている。 しかし、プライベートな距離は縮んでいった。 連休の間は、どちらかと会う確率が高くなっていく。 ジョギングの途中で武田と会う、約束をするでもなく時間が合えば。 もしくは主任から、散歩に付き合わないかと誘いがくる。 どちらもミホにとって、かけがえのない時間となっていった。 どちらかと会えた時の気持ちの高揚を意識した事もある。 (自分で分かってなかったけれど寂しかったんだな、…私。) その寂しさを、今日は久し振りに味わっていた。 ジョギングでは武田を見掛ける事も無く、主任からのメールも無し。 午前中に洗濯を済ませると、午後の予定は何も無かった。 ミホは、かつての自分の生活を思い出していた。 …たった独りの休日の過ごし方を。 母が亡くなり、妹弟が独立していった。 妹が専門学校で、弟が全寮制の工業高校へ。 それぞれの道を進む為に、この家を出ていった。 ミホは母とコテツの還る場所を守る為に離れる事はなかった。 …頑なに。 それは、妹と弟の帰る家を守る為である。 そして、皆と自分との想い出を守る為でもあった。 母子四人と番犬一頭には狭すぎた六畳一間である。 だがミホが一人暮らしをするのには、広過ぎるのだ。 部屋には必要最低限の家具しか置いていない。 ベッドもソファも見当たらない。 コタツと兼用のテーブルだけが、控え目な自己主張を見せている。 幼い頃から貧しかったミホは、物欲が育たなかった。 流行の物にもブランドにも興味が湧かなかった。 書店やコンビニで立ち読みする漫画。 唯一テレビで楽しみにしていたアニメ。 その面白さには、進んで虜になっていった。 映画はレンタルしてきて妹弟と一緒に観ていた。 いつかは映画館で観たいとは思っている。 レンタルと言えば、本もそうであった。 休日は図書館で一冊だけ本を借りてきて、のんびり読書。 これが一人暮らしになってからの、彼女の定番コース。 (久し振りに読書でもしよっかな…。) ミホは久し振りに図書館へ行こうと部屋を出た。 何を読むかは決めていない、それが彼女のスタイルである。 実際に本を手に取って、その装丁を眺めて決めるのだ。 作り手の本に対する愛情が確認出来るかどうか、である。 この装丁での選択は、外れた事が無かった。 「えっ…!」 図書館の閉じられた門前で、ミホから思わず声が漏れた。 国の在宅自粛の方針で、この図書館も一時閉館との貼り紙を読む。 (図書館も自粛対象だったんだ…、知らなかったな…。) ミホは久し振りの読書が叶わず残念であった。 これで選択肢はアニメのレンタルぐらいしか無い。 (アニメ映画で観てない作品って、何が残ってるかな…?) 夕飯の材料を揃える為に、スーパーの方へと足を向けた。 駅前にはチェーン店の大型レンタルショップも在る。 ところが、そのレンタルショップも閉まったままであった。 「あら…。」 (そっか、それはそうだよね…。) 昼を少し過ぎて、客の少ないスーパーにミホは入っていく。 休日の献立にはカレーを作る事が、母から受け継いだルールである。 カレーライスからパスタ、うどんと三食分にはなるからだ。 連休であれば尚更である。 そして安価な豚肉を使うのも、森家の暗黙の了解であった。 一通り食材を揃えてレジへと向かう途中で着信音が鳴る。 ラインではなくメール、つまり片山主任からだという事だ。 その内容は一緒に食事でもどうか、といった事であった。 店舗がどこも開いておらず、どうせ自炊するなら余らない様にとの事。 ミホは思い切って自分の家に誘ってみた。 (確かに一人分だけ一食作るのは面倒だもん。) 片山主任はミホの逆提案に喜んだ、もちろんミホもである。 これで今日が、誰とも会話をしない日ではなくなったからだ。 後はミホが母から受け継いだ味を、気に入って貰えるかどうかだけ。 二人は改札で待ち合わせをした、いつもの様に。 乗客の流れに乗って改札から片山主任が出て来た。 寄り添っていくミホ。 そんな二人は、とても上司と新人の部下には見えない。 仲の良い友人そのものである。 「これ、デザートよ。」 主任の持っているのは有名アイスクリーム店の袋。 それはミホの大好きなメーカーでもあり、嬉しくなってしまった。 「チョコミントとラムレーズンの新作は、取り敢えず試すのよ。」 「あ~、よくわかります。」 (味の好みまで似てるなぁ…。) 二人はミホの家に着くまで、お互いの好きなアニメの話をしまくった。 仕事についてなど、一言も出て来ない。 話に夢中で、あっという間に家に着いた。 片山主任がアイスの袋をミホに手渡した。 「これ、溶けるから冷蔵庫に入れておいてね。」 「はーい。」 「どっちが好きか分からないから、二個づつ買ってきた。」 「はーい。」 ミホは袋から出して、冷凍庫に入れていく。 アイスは全部で六個在った。 (あれ、二個づつなのに多いな…?) 「主任、二個づつなのに六個在りますよ?」 「えっ、三人だからそれで合ってるんじゃない?」 「…三人ですか?」 「武田も呼んだわよ…、言ってなかったっけ?」 「初耳ですよ~。」 (そんな大事な事、言い忘れないで欲しいよ…。) ミホの頭の中だけで、非常事態宣言が出された。 部屋は質素なだけあって、常に片付けは行き届いている。 ただミホの作るカレーを気に入ってくれるかどうか…。 カレーを温め始めながら、少し緊張してきた。 奮発して買った豚の角煮を投入して弱火で煮込む。 その仕上げの段階の頃に、インターホンが鳴らされた。 「どうせ武田だろうから、私が出るね。」 「お願いしまーす。」 片山主任が玄関のインターホンで返事をする。 そのまま玄関のドアを開けた。 武田が照れながら、入ってきた。 「森さん、お邪魔します。  主任、呼んで頂いてアリガトウございます。」 「いらっしゃい、武田クン。」 「武田、どうせ連休中も独り飯だろ?」 「連休どころか、誰かと食事するのは今年初めてですねぇ。」 (えっ…!  武田クンのご家族はどうしているんだろう…?) その武田の発言に、ミホは少し喜んでいた。 自分と現在の境遇が似ている事に、何故だか安心してしまう。 「でも…僕、お邪魔して良かったんですかね?」 「大丈夫でしょ、三人で食事するぐらいなら。」 「庭に面した窓も開けてありますし、換気扇も回しているので。」 「そうよ、庭も含めて森さん家だから三密には当たらないわ。」 「それを聞いて安心しましたぁ。」 (三密はダメだけど、親密はアリだからね。) ミホと武田を交互に見ながら、片山主任は心で呟いた。 そして、その自身の呟きに自画自賛していたのである。 (上手い事言うな…、私。) ミホはカレーをよそって二人の前に持って行った。 コタツと兼用のテーブルが少し恥ずかしかったけれど。 「旨いすね!」 「美味しい!」 二人共、一口食べたら気に入ってくれた様だ。 それが例えお世辞だったとしても、ミホは嬉しかった。 写真立ての母も喜んでくれている様であった。 二人共、お替わりをしてくれた。 三食を見込んでのカレーが、夕食だけで尽きてしまう。 だけどミホは、ものすごく満たされていた。 誰かと一緒の食事は、こんなにも美味しいのだ。 三人がデザートに選んだアイスはチョコミント。 それぞれ珈琲と紅茶で、お喋りを楽しみながら堪能。 やがて外の暗さが窓から潜り込んでくる。 片山主任と武田は帰宅していった。 (楽しかったな…。) ミホは空っぽになった鍋を、満足そうに水に漬けた。 味は自分ではよく覚えていない。 それでも満足して貰えたのなら嬉しかった。 食器を洗うのが終わった。 そして珈琲で一息入れる事にした。 武田も片山主任も家に着いているだろう。 ミホはそれぞれにラインとメールを送った。 どちらも内容は同じである。 「お疲れ様、とっても楽しかったです。  まだラムレーズンが残っているので、また遊びに来て下さい。」
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