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「あの子、ずいぶん遅いね」
ひとりきりの部屋で祖母がつぶやく。日はかたむき、山の影が長く忍び寄っている。昼間、白く乾いていた光はだんだんと湿り気のある色に変わってきていた。祖母が畳の上を歩き回る。
なにかいやな予感がする。
理由はないが、なんとなくそんな感じがした。祖母が家のなかから広大な山を見渡す。
見つかるわけがない。
セミの声が頭のなかで反響していた。
「おばあちゃん、たいへん」
いきなり声が飛んできた。ついで、玄関がいきおいよく開く。少女が息を切らして帰ってきた。祖母はひとまず胸をなでおろしながら、少女を玄関まで迎えに行く。
「どうしたんだい、ずいぶん遅かったじゃないか」
少女は帰宅のあいさつをすることなく、肩を上下させながら祖母に訴えた。
「たいへんなの、おばあちゃん。おじいちゃんがセミになっちゃった」
「なんだって。どういうことだい」
「とにかく来て」
少女に手を引かれて、外に出る。太陽は山の向こうに隠れ、連なる山々は巨大な影絵のようだ。
蒸し暑い空気をかきわけて少女が駆けていく。少女と祖母は途中でわき道に入り、森のなかへ足を進めた。むせかえるような土の匂いが鼻をつく。足もとは悪く、油断すると転びそうになった。
「おばあちゃん、はやくして。おじいちゃんがたいへんなの」
「どうたいへんなんだい。さっきセミになったとか言っていたけど、くわしく教えてくれないかい」
祖母は少女と会話をする。なんとか話を聞きださなければならない。湿った空気が口に入っては、また同じように出ていく。虫の鳴き声が耳鳴りのようにあたりを包んでいた。
「おじいちゃんが土のなかから出てきたのよ」
「ええ、そんなばかなことがあるわけ――」
「本当だってば。だけど、土のなかから出てきたのに、おじいちゃんったら動かないの」
少女の足が一段とはやまる。どうやら現場は近いらしい。祖母があたりを見回す。見覚えのある景色を探したが、森の木々はどれも大差なく見分けはつかなかった。
「ほら、あそこよ」
少女が立ち止まって、指をさした。祖母が手近な木につかまりながら、少女がさす方向を見る。
そこだけ山の斜面が崩れていた。どうやら小規模な土砂崩れが起こったらしい。湿った土がむき出しになっている。その土のなかに祖父がいた。半分体が埋まった状態で、こちらをうらめしげに見つめている。
祖母は思わず目をそらした。土のなかにいたためだろうか、思ったより原形をとどめている。
「ねえ、おばあちゃん。おじいちゃんはどうして動かないの」
少女の声がする。祖母は即座に頭を切り替えて彼女の質問に答えた。
「おじいちゃんはね、土から出てくるのがはやかったのよ。もうすこし土のなかにいないといけないんだ。セミっていうのはそういう生きものなんだよ」
「そうなの。わたし知らなかったわ。でも、どうすればいいのかしら」
「土のなかへ戻してあげるんだよ。簡単に出てこられないように、こんどはもっと深く埋めてあげようね」
祖母が少女へ近づく。
「そうだ。あなたもいっしょなら、おじいちゃんもさびしくないよ」
なにも知らないおさない顔へ、祖母の手が伸びていった。セミの声がだんだんと遠くなっていく。
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