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 どうして今日に限って目覚ましが鳴らなかったのだ。昨日寝る前にアラームはセットした。二十回は確認した。それなのにどうして。  圭介は頭を振った。過ぎたことを後悔するには時間が足りなかった。今は他のことに頭を働かせるべきだ。 顔を上げると信号はまだ赤のままだった。圭介は考えてみた。  ここから駅前まではちょうど五分くらいで行ける距離だった。その日の信号運や車の交通量によってその結果は変わるだろう。しかしそんな運に頼っていてはいけない。駅までの近道を探すべきだ。確実に五分以内に奈々の顔を見られる道を探し出すべきだ。  パッと思いつく駅前までの道のりは三ルートある。一つは正面の歩道を突き進むだけだ。結論から言うとこの道が一番近道で早くたどり着けるだろう。  しかし、と考える。  顔を上げ、横断歩道を挟んでスマホを片手に信号が変わるのを待つ一人の男を見た。そいつには見覚えがあった。というか中学からの友人だ。中高と同じ学校で青春を楽しんだ仲で、言葉を交わせば三時間は時が飛んでいるのもざらにあった。大学はお互いに違う進路を選び、最近は顔を合わせる回数も減ってきていた。しかし久しぶりに出会えば近況報告を片手に思い出話に花を咲かせるだろう。そうなれば五分どころか大切な約束まで忘れてしまうだろう。今回のチャンスを逃せば奈々との復縁の機会は一生訪れてはくれないだろう。  正面の道は選べない。  圭介は隣の路地に続く左の道を選んだ。  左隣の路地はこことは違い交通量も人の数も少ない。何も気にせず全速力で走れば約束の時間には間にあうだろう。  路地に続く横道を走る。肩すれすれを車が通り過ぎて行く。もし車の免許さえ持っていれば、と考える。家からわざわざ電車を使わなくても簡単に早く駅前まで行けたのに。お金と時間を理由に免許を取らなかったことに後悔した。  左路地にはすぐ着いた。息も上がっていない。それに予想通り車も人も少ない。正面の道では駅前まではあと一つ横断歩道があるがこの道はない。圭介は勝利を確信し口元に笑みを浮かべた。  そんな浮かれた気持ちが神様の機嫌を損ねたのだろうか、突然左足に激痛を覚えた。見ると大型の茶色い毛並みの犬が自分の左足にかぶりついていた。首輪は付いていなかった。圭介のはるか後ろから、たぶんこの犬の飼い主であろう、女性の声が聞こえてきた。圭介が犬の口元を掴み足から引き離そうとしていると、その声は次第に近づいてきてやがては背後で止まった。 「すみません。うちの子が」  女性がやめなさい、と路地に響く声を出すと、さっきまでは死んでも離さないような熱意がこもっていた犬の牙が簡単に足から抜けた。 「痛い。めっちゃ痛い」  圭介はその場にしゃがみ、ズボンをめくり傷口を確認した。犬の歯が深くまで刺さっていた小さな穴からは血がどくどくと溢れかえっていた。これは出血大量で死ぬんじゃないかと不安になった。 「すみません。うちの子が」  そういって女性はハンドバックから小さな花柄のハンカチを取り出すと、傷口に強引に押し当てた。口から小さな悲鳴が漏れた。そのハンカチはすぐに啓介の血で赤く染まっていった。圭介は自分もハンカチを持っていることを思い出しポケットから出す。女性のハンカチと交換し、今度は自分の手で傷口を慎重に押さえた。  意識が朦朧とする中、痛みのせいで忘れかけていた奈々との約束を思い出した。こんなことをしている場合じゃない。  圭介は痛みを我慢し立ち上がる。それを見て女性が心配そうな目線を向けてきた。 「すみません。今すぐ病院に」 「いえ、大丈夫です。僕も犬を飼っているので噛まれるのには慣れていますから」  歩を進めようとする圭介にそれでも女性は手を伸ばす。 「そういうわけにはいきません」 「気にしないでください」 「すぐに病院に行きましょう」 「大丈夫ですから」 「でも血が」  さっき替えたばかりの圭介のハンカチは真っ赤な血で染まり、吸収できなくなった分が足を伝い靴下まで届いていた。視線がぐわんぐわんと揺れる。地面が柔らかくなり足元が不安定になった。 「急いでいるので。もう行きます」  圭介は捨てるようにそう言って大きな一歩を踏み出した。  すると視界が一瞬真っ黒になった。次に目を開けると路地が歪んでいた。重力を感じる。身体が、頭が地面を目指して落ちていく。  圭介は大量出血によって、意識を失い路地に倒れこんだ。
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