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 どのくらいの時間が経っただろう。圭介は恐る恐る目を開け、顔を上げた。  信号機はまだ赤い光を放っていた。  腕時計を見る。午前九時五十五分一秒。  不思議に思う。そして理解する。  圭介は赤信号を待つ間、駅までの最短の道を探すべくいくつかのルートを想像した。それは文字数で例えれば約四千文字を費やした。日本人の一分間の読書速度は約五百文字らしい。つまり四千文字読むのに八分間かかることになる。なら頭の中で約四千文字分のことを空想するには何分くらいかかるだろう。読むのよりは早くても三分の一の時間には収められないだろう。  つまり圭介が赤信号を確認し、ルート検索を空想し始めてから、最低でも二分半は経っていなくてはおかしいのだ。  それなのにまだあれから一秒しか時間は進んでいない。  それはなぜか。簡単だ。  圭介はこの小説の物語の登場人物だからだ。架空の存在。現実には存在しないキャラクターだからだ。そんな架空の世界の中で生きる、圭介にとって頭の中で考えた事柄はこの物語を形成する時間には組み込まれないのだ。  魔王に痛恨の一撃を与えられそうになった勇者でも、ピッチャーが投げたボールを目で追うバッターでも、最愛の妻にナイフで心臓を突き刺されそうになった夫でも、精神を病み自らを海に投げ込む犯人でも、キーパーと一対一になったサッカー選手でも、同じようなことを経験するだろう。それが人の手によって作られた架空の物語の中の登場人物なら。  物語の中での空想は時間に縛られない。  圭介は顔を上げた。信号機はまだ赤のままだ。腕時計を見る。  時刻は午前九時五十五分二秒。  そういえばまだ考えていなかったルートがあった。ヒッチハイクや、家の敷地を通らせてもらう。駅前に続く道は無数にある。奈々との約束の時間は十時だ。圭介に残された時間はあと四分と五十八秒。焦る必要はなかった。   だって。  まだ時間はあるのだから。
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