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 信号が青から赤に変わった。横断歩道の上を車が駆ける。鈴木圭介は仕方なく歩みを止め、腕時計に目を向けた。時刻はちょうど午前九時五十五分。約束の時間までは五分しか残っていなかった。   二年間付き合った中田奈々から電話がかかってきた時、鈴木は涙が溢れるほど嬉しかった。ここ数ヶ月、彼女の顔どころか声すら聞いていなかったからだ。避けられていた理由には心当たりがあった。原因は自分自身にあり、最後に彼女と顔を向き合わせたクリスマスの夜を思い出さない日はなかった。  小さい頃から忘れっぽいところはあった。小学生の時は名前の書き忘れで何度もゼロ点をもらったし、中学ではよく宿題を忘れて廊下に立たされた。高校では部活最後の公式戦でユニフォームを忘れてベンチ外だったし、大学では前日に目覚ましのセットを忘れて授業に遅れて単位を落とすことも珍しくなかった。  自分の不甲斐なさが嫌になったことは何度もあった。大切なことをメモしたメモをなくす自分には反吐がでた。結局この性格を治せないまま大学四年生の春を迎えてしまった。  しかし悪いところばかりではなかった。その忘れやすい性格が運んできてくれた数少ない幸運が奈々との出会いだった。大学に入学したばかりの頃、ある講義で大切な書類を教室に忘れて帰ってしまったことがあった。それは奨学金申請書だったのだが、期日がその日までのものだった。絶対に提出を忘れてはいけないと思い、カバンに入れずに手で持っていたのが仇となった。講義に集中するあまり隣の席に置いた封筒の存在を講義終わりにはもう覚えていなかった。  失くしたことも期限のことも忘れて家に戻り、一人で小説を読んでいると玄関のチャイムがなった。ドアを開けると一人の見知らぬ女性が立っていた。それが中田奈々だった。奈々は圭介の忘れ物に気づき、それに奨学金の申請期日が今日いっぱいのことを知っていた。そして友達のツテを頼り圭介の家を特定し、封筒を届けにきてくれた。その話を聞き圭介は奈々に深く感謝すると同時に奨学金のことを思い出した。奈々と一緒に大学に戻り奨学金申請書を提出しに行った。そのあと夜ご飯を奢ったのはお礼のつもりと、一目惚れのせいもあったのだろう。その日以降、圭介と奈々は気の会う友達となり、一年を過ぎる頃には恋人になっていた。  奈々との交際は順調とはいえなかった。「ありがとう」より「ごめん」と言う方が多かった。それも圭介の方がその言葉を使う回数が多かった。その理由のほとんどが圭介の忘れやすい性格が原因だった。  二人の関係に大きな亀裂を走らせたクリスマスの夜も、圭介の忘れやすい性格が二人の間にハンマーを振り下ろした。 あの夜の遅刻は特別じゃなかった。圭介は気づかなかったがもうその頃には奈々の心は限界だった。何度も同じミスを犯す圭介に我慢の限界がきていた。 あの夜に全ては崩れたが、そのずっと前から崩れ始めていたのだ。啓介と奈々の関係は消滅した。 そう思っていた矢先、奈々から一本の留守電が入った。 「明日、朝の十時に駅前で待ち合わせ。最後のチャンス。絶対に遅れないで」  時刻は九時五十五分。人生を左右する約束の時間まで残り五分。圭介は歯を食いしばった。
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