ぼくらの戦場

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 撤退命令が伝えられてどのくらい経ったのだろう。十分しか経っていないようにも思えるし、一時間以上走っているようにも感じる。敵戦力との圧倒的な火力の差に、ぼくたちの小隊は散り散りになって逃げ惑うしかなく、気付けばぼくは、みんなからはぐれて独り市街地を彷徨(さまよ)っていた。  作戦開始前に渡された地図には載っていない区域。敵の情報も、地雷の位置も何も分からず、一歩歩くごとに胃が縮み上がりそうになる。目の前の崩れかかったコンクリートのアパートから狙撃主が狙っているかもしれない。辻を曲がったところに地雷が敷設されているかもしれない。5.56ミリと7.62ミリの銃声が近付いたり遠ざかったりしながら辺りを取り囲むように響いてきて、ぼくはパニックになった頭で必死に逃げ惑っていた。どこが安全なのか、どこが危険なのか、どこに逃げればいいのかも分からないまま。  ずっと走り続けて限界になってきたぼくは、目の前の民家に駆け込んだ。家の住人はとっくに逃げ出していて、質素な土間敷きの部屋には、食器や水がめの割れた破片が散らばっていた。外から射し込む陽光が、薄暗い部屋に舞い散る砂塵を静かに照らし出す。  口から心臓が跳び出しそうなほど高鳴る鼓動を抑えていると、ふと、繊細な宗教的紋様をした赤い絨毯が目についた。毎日の祈りのために敷かれたそれを見ていると、少しだけ気分が落ち着いてくる。 「……イブラヒム……、イブラヒム!」  そのとき何処からか、ぼくの名前を囁く声が聞こえた。 「アリーか……? 何処にいる……?」  敵に気付かれないよう、ぼくも小声で話す。 「こっちだ……!」  声のした方を向くと、アリーは道を挟んだ向かい側、家と家の間に積み重なったがらくたの陰に隠れながら、ぼくに手招きをしていた。  ようやく見つけた仲間に、ぼくは安堵の息を漏らしながらアリーのところへ駆け寄った。彼はAK―47突撃銃を構えて周囲を警戒しながら声だけをぼくに向ける。 「怪我はないか、イブラヒム」 「ああ、ぼくは大丈夫だよ。君の方こそ無事かい?」 「問題ない」  すぐ近くで炸裂音がして、思わず身を縮ませた。粉々になった石と煙状になった砂が顔に降りかかってきて、ぼくたちの顔はターバンで覆った部分を除いて真っ白になっていた。 「ここも安全とはいえないな。移動するぞ」 「でも、どこに行けば……」  アリーはポーチから地図を取り出して手早く拡げる。 「この辺りが今俺たちがいる場所だ。この路地を抜けて左へ行くと、大通りを挟んだ辻に出る。そこを右に曲がってまっすぐ2ブロック行くと給水塔がある。そこから合流地点までは目と鼻の先だ」  彼が取り出した地図にはぼくには読めない文字で色んな書き込みがされていて、所々血で汚されているのを見ると、どうやら敵から奪い取ったものらしい。 「俺が前衛に出る。離れずに付いてくるんだ。いいな」 「わかった」  日よけの幕布に遮られた影と、合間に射し込む強い日差しが交互に織り成す白黒の道を、ぼくたちは足早に進んでいった。深く入り組んだ路地に、ぼくたちの足音と息遣いだけが妙に大きく聞こえる。  アリーは曲がり角や辻では必ず立ち止まり、手早く、しかし確実に安全を確保しながら進んでいった。ぼくも銃を構えるが、ほとんど彼一人で(おこな)っているようなものだった。 「あと少しで大通りだ」  アリーが告げたとき、(ひら)けた大通りがぼくたちの目の前を横切るように現れた。  おそらく戦場になるまでは市場だったのだろう。焼け焦げた衣類や、装身具、缶詰めや果物などがつむじ風に吹かれるまま散乱していて、なんとも侘しい光景だった。  まぶしい照り返しを手で遮ながら進みかけたとき、アリーがぼくの行く手を阻んで「隠れろ」と身振りで合図した。  理由を察知するより前に身体が反応する。ぼくは果物店、アリーは向かい側の服飾店にそれぞれ身を伏せたのとほとんど同時に、忌々しいエンジン音が近付いて来た。  武装車両から降りてきたのは二人の敵兵で、うだるような暑さにぼくには分からない言葉で愚痴らしきことを言いながら、ぼくらが隠れている通りへ歩いてきた。足取りは気だるいが、手にはしっかりと最新鋭のM16アサルトライフルを持っている。  ぼくは“攻撃するか?”とアリーに視線で尋ねたが、彼は首を横に降って車を顎で示す。中にまだ敵がいるもしれないという意味だ。  二人の敵兵がぼくの前を通り過ぎようとしたとき、一人が店の果物を手にとってかじりつき、相方にも勧めた。  ぼくの隠れている場所は奥まったところではなく、日の当たり具合や角度によってすぐにバレてしまう。目の前から動こうとしない敵兵に、ぼくは恐怖と焦りを感じながら、震える脚を押さえつけていた。  敵兵の一人が次の果実へと手を伸ばしかけたそのとき、平台に山積みにされていた大ぶりの果物が大きな音を立てて床に落ちた。その音にぼくは思わず吃驚して、さらに大きな音を立ててしまった。  二人の敵兵が素早く銃を向ける。まるで恐ろしい化物に狙いをつけられたかのように心臓が何度も逃げようとする。今にも見つかりそうな、頼りない木箱の陰に背中を預けながら、ぼくは強く目をつむって、頭の中でひたすらに神への祈りを唱え続けた。  ゆっくりと近付く足音が間近に迫った次の瞬間、聞きなれた、軽快なAKの発砲音がして、敵兵が重なりあってぼくの足元に倒れこんできた。  何事かと恐る恐る顔を上げてみると、そこには硝煙を上げるAKを肩に構えたアリーの姿があった。 「逃げろ! イブラヒム!」  通りへ飛び出しながら、アリーは武装車両の方へ銃を向ける。 「でも……!」 「いいから早く行け! 俺も後から――」  ぼくへ注意を向けたほんの僅かな隙に、アリーは重機関銃の掃射を正面から浴びて、ぼくの目の前で彼は細切れになって吹き飛んだ。かろうじて原型を留めた下半身から、ぬらぬらと濡れ光る内臓や紐のような腸が、砕かれた骨と一緒になって覗いている。  胃が痙攣を起こし、ぼくはたまらず床に吐き戻した。漂う吐瀉物と血の匂いに、あたかもぼくがアリーの肉を食べたかのような錯覚を引き起こさせて、再び吐き気に襲われる。  しかしそんな猶予は許されず、腹の底にまで響いてくる重い銃声と、削岩機のように石壁を貫いてくる銃弾の嵐の中を、ぼくは泣きべそをかきながら這い進んだ。質の低いコンクリートが灰色の粉塵を巻き上げ、木箱に入れられた果実が冗談のように砕け散る。あまりの恐ろしさに悲鳴さえ上げられないまま、何とか裏口から路地へ出ると、ぼくは無我夢中で合流地点を目指した。  瓦礫を避け、仲間の死体を踏み越えながら、頭の中はアリーのことでいっぱいだった。どんなに目を拭っても視界が滲んでくる。 「アリー……」  一度だけ掠れた声で呼んでみるが、返事はない。どんなに自分をごまかしても、ぼくを助けようとして彼が死んだという事実は変えようがなかった。  戦闘の音がしだいに大きくなって、ぼくは速度を落とした。合流地点では生き残った仲間たちが、瓦礫に隠れながら激しい応酬を繰り広げていた。 「イブラヒム! 無事だったか!」  低く、威厳を備えた声が銃声の合間から聞こえて、ぼくは声の主がいる場所まで駆け寄った。 「ウスマーン隊長」 「怪我はないか? アリーはどうした?」  その質問に、ぼくは咄嗟に何と答えていいか分からなかった。しばしの沈黙のあと、隊長はたった一言「そうか」とだけ呟いて、後は何も聞いてこなかった。 「イブラヒム、お前に頼みがある」 「隊長、ぼくは……」 「今は何も言うな。それよりもよく聞くんだ」  隊長がぼくの肩に手をかけた。爆発音が響き、廃車の陰に隠れていた仲間の一人が断末魔の叫びを上げながら吹き飛ぶ姿が、視界の端に映る。 「このままここに留まり続けていても我々は全滅するだけだ。これ以上犠牲者を出す前に、あれを何とかしなくてはならない」  隊長が示した先、脱出ポイントへ通じる唯一の道を、一台の装甲車が塞いでいた。ぼくたちが持っている旧世代の突撃銃では、傷ひとつつけられないほど頑丈な装甲を備えている。 「迂回することは出来ないんですか」 「それは私も考えた。しかし出血のひどい者には遠回りをしている時間がない。迂回先で敵勢力が待ち構えていないという保証もないしな」  ぼくはそこで初めて、隊長の右腕がおびただしい出血によって赤く染まっていることに気が付いた。よく見れば隊長だけでなく、ぼく以外のほとんどの仲間がどこかしらに包帯を巻いていた。貧しいぼくたちに高等な医学を学んだ者など当然居らず、重傷を負った者たちは横たわった身体の下に血溜まりを作りながら、弱々しい苦悶の声を上げていた。 「この者たちをみすみす死なせる訳にはいかん」 「でもあの装甲車には、ぼくらのAKじゃ歯が立ちませんよ」  隊長は黙って指をさした。そこには同じ小隊のウマルさんの亡骸と、その傍らにロケット弾を装填したままのRPG―7が転がっていた。 「ウマルは自ら志願して死地へと突っ込んで行った。あの装甲車を破壊するのは分隊支援要員である自分の役目だと。だが通りへ出た途端、敵の集中砲火を浴びて……。  頼む、イブラヒム。ウマルのRPGを使って、あの装甲車を破壊してくれ。五体満足に動ける者は、もうお前しかいない」  仲間の視線が一斉にぼくに集まる。どの瞳にも、絶望の中で最後の希望に救いを求める光があった。 「……分かりました。ぼくが行きます」  みんなの間から安堵と称賛のため息が漏れる。 「よし。作戦はこうだ。我々が一斉射撃でお前を援護する。お前は私の合図で走りだし、RPGを回収したら向かいのアパートまで全力で走れ。そこは敵の死角になっている。それまで決して立ち止まるな」  高鳴る鼓動を抑えながらぼくは頷く。じんわりと手に汗が滲みだしてきた。 「アパートに着いたら階段を上って屋上へ行け。視界に邪魔が入らないから比較的狙いやすいはずだ。だがいいか、ロケット弾を発射したら即座に敵に位置がバレてしまう。敵の反撃を受ける前に急いでその場を離れろ。そして一階に隠れているんだ。  我々は装甲車の破壊が確認され次第、トラックで戦線を強行突破する。お前を回収する際に速度は落とすが、止まることはしない。絶対に乗りそびれるなよ」  隊長は説明を終えると、「準備が出来たら教えてくれ」と告げて、重傷者をトラックの荷台へと運び始めた。  自分に課せられた使命を思うと、正直にいえば怖かった。しかしこうも考えてみた。ぼくがあの装甲車を破壊してみんなを助けることが出来たなら、アリーの死は無駄にはならないんじゃないか、と。  アリーの死に様を思い出すと、再び身体に震えが走ってくる。しかしそれは恐怖から来るものではない。ぼくは強い決意を胸に、前を見据えた。 「準備はいいか?」 「はい」 「すまない。若いお前にこんな無茶をさせてしまって。私の腕がこんな状態でなければ……」 「いいんです。これはぼくがやらなければいけないことだったんです。……アリーのためにも」  それぞれの無事を祈りながら配置につく。みんなお互いの目を見やり、力強く頷く。奇妙に静かな瞬間だった。 「3……2……1……」  隊長のカウントダウン。最後にぼくは深呼吸をひとつ。 「行けーッ!」  隊長の掛け声と共に、みんな一斉に突撃銃を撃ち放つ。 「うああああっ!」  同時にぼくも走り出した。前屈みに腕をエンジンのように振り、限界以上に脚を動かす。敵の銃弾が足元をはじくがぼくは止まらない。AKの銃声が頼もしく背中を押す。花火のような風切り音が聞こえ、榴弾が炸裂した。細かく砕かれた瓦礫の破片が降り注ぎ、目の前を煙と砂塵のスクリーンが舞う。 「止まるな! 走れ!」  銃声の中からかすかに聞こえた隊長の声に勇気づけられて、灰色のもやの中へ突っ込んでゆく。漂う粉塵に目の奥と咽喉(のど)が焼け付くように痛む中、鈍い太陽に向かって走り続ける。  灰塵を抜けて強い陽光の下に飛び出す。ウマルさんの亡骸を飛び越え、走りながらRPGを掴む。ぼくの身体を隠してくれている瓦礫や廃車に次々と銃弾のクレーターが穿たれてゆき、その間をぼくはアパートまで低い姿勢で駆け抜けた。 「はあっ……、はあっ……」  階段の下で壁に背を預け、どこにも傷を負わされていないことに今になって驚く。空を見上げると、雲の隙間からいくつもの光の筋が古代神殿の柱のように降り注いでいて、神の存在を身近に感じたぼくは、再び活力を取り戻していった。  階段を一段飛ばしで駆け上がりながら、もう一度アリーのことを思う。アリーはぼくを助けるために死んだ。ならばぼくは何のために生きているのか。どうしてぼくだけが無傷で激戦を潜り抜けてこられたのか。みんなが傷付き、倒れ、死にゆく中で、ぼくだけが銃弾にかすりもしなかったのは、単なる偶然以上の、見えざる力が働いているとしか思えなかった。そういった目に見えない力学のことを人は奇跡や運命というが、もっとふさわしい言葉がある。「神の意思」という言葉が。そして神の代行者として選ばれた人間を、人は畏敬の念を込めてこう呼ぶ。「英雄」と。  階段が終わり、屋上へたどり着いた。ぼくは縁まで駆け寄り、RPGを構えた。 「ぼくは選ばれたんだ。異教徒を駆逐し、神の子供らを救う者として!」  神への祈りを口にしながら狙いを定め、ぼくは引き金に指をかけた。瞬間、突然世界が反転した。  身体が宙へ浮かび上がり、空と地面が逆転する。背中から吹き飛ばされ、空中で身体が仰向けにされる途中で、ぼくのいたアパートが爆炎とともに崩れる様が逆さまに見えた。一切の音は沈黙し、時間だけが間延びしたように遅く感じる。破壊されたアパートの残骸とともに地に落ちてゆく中で、ぼくが最後に見たのは、敵の戦闘ヘリが高らかに勝利宣言をしながら飛び去ってゆく姿だった。  どのくらい時間が経ったのか。十分しか経っていないようにも思えるし、一時間以上意識を失っていたようにも思える。  ぼくは瓦礫の中で目覚めた。幸いにも下が土だったので、幾分衝撃を和らげることが出来たようだった。  起き上がろうとして脇腹に激痛が走る。右足も骨が折れているらしい。左耳は完全に聞こえないが、右耳はまだ聞こえる。痛みを堪えながら何とか立ち上がって辺りを窺ってみる。戦闘は止んでいた。砂塵が舞っていた。青空が鮮やかに晴れ渡っていた。  ぼくは、生きていた。  脇腹を押さえ、右足を引きずりながらみんなのところへ戻ってゆく。黒焦げたぼくらのトラックは、まだ種火を燃やしながら道の脇に横転していた。  合流地点から大分下がったところにバリケードが組んであった。みんなはそこで死んでいた。隊長は額に穴を空けられ、座った姿勢のまま首だけを大きく後ろにのけぞらせていた。水たまりのような透明な瞳に、澄んだ空と白い雲が、静かに動いていた。  ぼくは振り返って、陽炎立つ瓦礫の道を、亡者のような足取りで再び歩き出した。
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