◆黒犬の章(2) 郊外の家

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◆黒犬の章(2) 郊外の家

 この都、ウアセトが「首都」として機能し始めたのは、ほんの十年と少し前に過ぎない。  以前はもっと川の下流――この国の中心に近いところに都があったのだ。数百年ほど前の王家が築いた壮麗なるイティ・タァウィ。けれどその都は、今ではもう、別の王の立つ王国の一部となっている。  この百年、「百年で百人の王が立つ」とまで揶揄された、ひどく混乱した時代が続いた。事実、直近の十年ですら十人近くの王が立っているのだから冗談と笑い流すことも出来ない。後継者争いの果てに王家の男が絶え、女王が即位した頃から、もはや誰が正当な王なのかが分からなくなっていた。  今や王国は、分裂の危機にあった。  かつての都より北の、「大いなる河(イテルゥ)」が幾つもの支流へと別れてゆく緑の中洲のあたりには、我こそは正当なる王家と名乗る別の王が何年も前から居座っており、隣国から移住してきた多くの異国人たちを束ねて傭兵として使っている。対するこちらの王家はといえば、もう何代も、何人もの王たちが立っては倒れる繰り返しだ。  戦死、謀殺、逃亡、処刑。  王たちは、様々な理由から短期間のうちに玉座を去って行った。そしてその間に王家の勢力圏は、徐々に川の上流へと押し込められていったのだ。  だからこの地には、まだ整備されていない通りも、区画も、山ほどある。  古い聖域も王宮も、急場ごしらえの首都の装いを重ねただけ。市街地も貴族の住む区画を除けば、貧民街のような治安の悪い場所ばかりだ。戦争続きで兵は常に不足している。更には黄金を供給していた南のクシュの領土を失ったことで、資金にも厳しい状況が続いていた。  閉塞感の漂う今のこの街で生きていくのは、楽なことではないのだった。  ラーネフェルが目指していたのは、建物の密集する町を抜けたその先、砂漠に向かう谷の入り口にぽつんと立っている小屋だった。扉は無い。入り口には隙間だらけの茣蓙(ござ)が、のれん代わりに掛けられている。  そこは、村ですらない。周囲に他に家はなく、家畜などもおらず、ほんの少しの畑とナツメヤシの木が申し訳程度に植えられているばかりだ。  「邪魔するぞ」 一声かけて入り口の茣蓙をめくると、すぐ側の炉辺で葦かごを編んでいた肉付きの良い女性が顔を上げた。かつて彼の乳母だったメネトだ。  「あら坊ちゃん!」 目が合った瞬、メネトは膝の上の糸くずを大急ぎで払い落としながら、炉辺から腰を上げる。  「いらっしゃい、――どうしたんです? それ」  「ん」 見ているのは、ラーネフェルの袖についている青黒い汚れだ。さっき払ったと思ったのに、きちんと落ちていなかったらしい。  「さっき、貧民街で絡まれていた娘を助けた時についたものだな。」  「喧嘩はよして下さいよ、奥様に知られたら何て言われるか。…ここまで来て下さるのは嬉しいのですが、危ないところは避けて下さいな」 苦笑しながら、彼女は台所の端の水がめに向かうと、濡らした布切れを手に戻ってきた。  「さ、そこに座って。汚れを落として差し上げますよ」  「――カイは?」  「漁に出かけてます。じきに戻る頃のはずだけど。」 炉辺に腰掛けて手当てを受けながら、ラーネフェルは狭い小屋の中を見回した。土くれから作られた二部屋しかない家に、ヤシの葉を葺いて作った天井。家具と呼べるものは、水を入れる大きな甕と仕事道具を入れた籠が二つ、敷物が何枚か。あとは物入れの櫃ひとつない。  この家は、乳母のメネトが任を解かれて勤めを辞めてから、しばらく経った頃に彼女の夫が建てたものだった。ここなら、土地を買い取らなくても良かったからだ。今は、ラーネフェルと同い年の息子カイと二人きりで暮らしている。  雇い主だったラーネフェルの両親は、彼女に十分な退職金を支払った。だが、それだけで残りの生涯を楽に暮らしてゆけるほど、街での暮らしは楽ではない。年々上がる物価に度重なる日照りの被害、おまけに運悪く、仕事を辞めて何年も経たないうちにメネトの夫は水の事故で亡くなってしまった。家を建てた残りの退職金は、墓を買い、夫の葬儀を執り行うために費やされてしまった。  「やっぱり、こんなところで二人だけで暮らすのは厳しいだろう」 袖口を吹いていた手を止めて、彼女は、困ったような、優しい笑みを浮かべた。  「また、そのお話なんですね…。」  「俺に自由に出来るものは少ないが、名目をつけて給金を払うくらいは何とかなる。カイを俺の従者にくれれば、お前にもっと楽な暮らしをさせてやれるんだが」  「気持ちは嬉しいですけどね、坊ちゃん。奥様が嫌がりますよ。ここへ来てるのだって、きっともう知られてますよ。」 その言葉は暗に、彼女が乳母の任を解かれた時のことを指していた。  母のセネブティがなぜメネトを辞めさせたのか、その理由にラーネフェルは薄々気づいていた。  母は何かを恐れているようだった。メネトに会うことだけではない。メネトの息子、彼にとって乳兄弟にあたるカイと友人関係にあることにも、ことあるごとに「身分に相応しくない」などとケチをつけてきた。そんなセネブティが、カイを召抱えることを許してくれるはずもない。良家の出で、根っからの誇り高い貴婦人である彼女が、たやすく考えを変えるような人でないことは、ラーネフェルにも良く分かっていた。  「せめて街中に暮らせないのか。こんなところで二人きりで――夜盗に襲われたりは」  「いいえ、危ないことなんて何もありませんよ。盗るものもないくらいの家ですからね。街より気楽でいいですよ」 そう言って、メネトは笑う。若い頃はさぞかし美しかっただろう容貌も度重なる苦労のためにすっかり衰え、目じりには深い皺が刻まれて、今では実際の年より二十歳も老けて見える。それがラーネフェルには辛かった。  「旦那様も、奥様もお変わりないのですか?」  「ああ、変わりない。兄貴もね。そろそろ嫁をとるとか言って見合いをさせられてるらしいが」  「まあまあ。ということは、坊ちゃんもあと何年かしたら?」 ラーネフェルは、小さく首を振った。  「俺は今のところ女に興味はない」  「でも息子がいないと、誰も跡を継いではくれませんよ」  「家だの跡取りだのうんざりだ。」 口をすっぱくして父や母の言うことには、もう何年も前から耳を貸さなくなっていた。成長するごとに家での監視は厳しくなり、息がつまるようで、時に自分の生まれを呪いたくもなった。貴族の息子より、農夫の息子のほうが自由でよい。たとえ厳しく税を取り立てられようとも、少なくとも、自分の意思で出かけることくらいは出来るではないか。  もっとも、その生まれにすら最近では、疑いを抱き始めていたのだが。  日が傾きはじめている。窓代わりの小さな穴から差し込む日の角度に気づいて、メネトはちょっと首をかしげた。  「…カイ、遅いわねえ。どうしたのかしら」  「大漁なのかもしれないな。」 椅子代わりにしていたかまどの端から立ち上がり、ラーネフェルは立てかけてあった杖を手にとった。  「また来る、カイにもよろしく伝えてくれ」  「ええ、お気をつけてね」 別れ際、戸口まで送ってくれたメネトに家族の抱擁を交わし、彼は元来た町のほうへ続く小道を、ゆっくりと歩き出した。
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