◆黒犬の章(3) 名もなき神

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◆黒犬の章(3) 名もなき神

 いつからだろう、自分の”生まれ”に疑問を抱き始めたのは。  杖の先で地面を軽く突き、ひしめき合う下町の建物を眺めながら、ラーネフェルは心の中で自問した。  母セネブティの何気ない言動からか。青銅の手鏡に映る自分が、父アンクゥや兄レニセネブと似ていないことに気づいた頃からか。  ほっそりして色白な母にも増して、父や兄は小柄で、男にしてはひ弱な体格だった。文官の家系だから仕方がないのだが、滅多に外に出ず書庫に篭り、日がな一日書類に向かっているおかげで、日焼けもせず、腕も細い。幼い頃からやんちゃ坊主で通っていたラーネフェルなどはその対極にあって、座学はとことん嫌い、屋根の上に登ったり、塀の上を走り回ったり、乳母や侍女を振り回しては楽しんでいた。  成長するごとにその傾向は増し、今では、荒くれを相手にしても、やすやすと組み敷けるほどの立派な体躯の持ち主だった。  彼としては武官の道に進みたかったが、父の猛烈な反対に遭い、今も叶わずにいる。いつも手にしている杖は、剣を持つことを固く禁じられたことに対する、彼なりの意趣返しのつもりだった。  両親の愛情に疑問を持ったことない。だが、いつもどこか、奇妙な余所余所しさを感じていた。  あるいは自分は、父が他所の女に産ませた妾の子なのかとも疑ってみた。もしかすると乳母のメネトが本当の母親なのではと考えてみたこともある。だが、メネトの息子のカイはラーネフェルとは似ても似つかず、とうてい、実の兄弟とは思えなかった。  自分の両親が何者で、自分は本当は何処の誰なのか。  この時代、孤児(みなしご)など何処にでもいる。内戦や政治的謀略による不幸も、治安の悪化による暴力的な死も、経済的な理由での捨て子も多かった。きちんとした家に貰われて、実子として分け隔てなく育ててもらえたと思えば、自分の在り方に不満は無い。けれど、どうしても不安なのだった。  両親との血のつながりのない確信が強まるにつれ、この世のどこにも居場所がないような感覚が胸の中で大きくなってゆく。もしかしたら自分は本当は、こんな立派な服を着て、腕輪をつけて出歩くような身分では無かったかもしれない。  だが、それを言葉にして両親に直接問うことはためらわれた。知ってしまうともう戻れない気がして、――今は、まだ。  ふいに、生暖かい風が首筋を撫でた。  足を止め、彼は視線を川に平行して走る道沿いの葦の茂みの中に向けた。何かがいる――こちらを見ている。  杖の鉤型に曲がった持ち手に力を込めた。日はまだ西の空にかかり始めたばかり、夜盗が出てくるには早すぎる。それとも、人気(ひとけ)の無い郊外なら昼でも足がつかないと踏んでいるのか? 葦の茂みがかすかに揺れている。足音もなく、気配は微かなままだ。ラーネフェルが歩調を速めると、ついてくる気配も近づく速度を速めた。  数は多くない。一人か。  開けた場所まで来ると彼は足を止め、背後に感じる気配の方向を振り返った。  「何の用だ。」 気配が立ち止まり、しばしの沈黙があった。  やがて、ゆるゆると影が動いた。  葦の途切れた中から音も無く滑り出してきたのは―― 一頭の犬だ。耳の先から尻尾の先まで真っ黒な、ほっそりとした体を持つ漆黒の犬。まるでそこだけ太陽の光が避けて通ったかのような色をしている。ラーネフェルは、杖を挙げながらゆっくりと身構えた。  その犬には、影が無い。  「死者を連れてゆく悪霊の類か? 太陽(ラー)の見ている時間に出てくるとは、酔狂なことだ」 軽い足取りでラーネフェルの目の前までやってきた犬は、歩みを止め、つ、と首を彼に向けた。金色の双眸、赤い舌。  『さて。その逆とは考えないのかね? よ』 びくりとして、彼は口元を引きつらせた。逆、とは?それに何故、自分をセケエンラーという別の名で呼ぶのだろう。  「私の名はラーネフェルだ。セケエンラーという人物を探しているのなら、人違いだろう」  『いいや、間違いない。お前がセケエンラーなのだ。私はお前に用があって来たが、化け物ではない。その逆だ』  「神の使いとでもいうのか。ならば、いずこの神の使いか。」  『さてな。それは私自身にも分からん』  「――何だと?」  『名を失って久しいのだ。それを取り戻してくれる人間を探していた。私の気配を感じとれた人間はお前が最初なのだ。だから、間違いないと声をかけた』 ラーネフェルは、呆れて杖を降ろした。つまりこの犬は、自分が何者か覚えていないらしい。それなのに、化け物ではなく、神だという。  「名を失った神なぞ聞いたことがない。人に名を呼ばれなくなった神は消えるものだ。」  『そのはずだがね、どうやら何か契約が残っているらしいのだ』  「契約とは」  『私の元の存在意義だよ。何かを守護するとか―― 何かを司るとか―― そんな果たすべき役目が、私の本質としての何かが辛うじて私という存在を必要としてくれているようなのでね』 地面にぺたりと尻をつき、犬は赤い舌をだらりと垂らしたままハッハッと息をしている。口が動いている気配はなく、この低い声がどこから聞こえてくるのかも分からない。まるで闇を犬の形に固めたようなそれは、ラーネフェルが信じるかどうかを推し量るように彼の表情を伺っている。  「……。」 ラーネフェルは、空を見上げた。太陽は間違いなく、そこに輝いている。万物の命を育む光、世界の秩序を作り出す存在…神々の長にして始祖なる太陽の神、太陽そのものの化身たるラーの乗る金の舟。その舟が天空を駆ける間は、いかなる冥界の化け物も、地上に姿を現すことはないといわれている。  「その、お前の名と姿とやらを見つけることで、俺にどんな利益がある?」  『お前の知りたがっていることを教えてやれる』  「…知りたがっていること?」  『私はお前の名を知っている。お前が生まれたときのことも覚えている。』  「俺の――」  『血を分けた両親のことも知っている』 信じがたい言葉ではあった。だが、これが人を騙して冥界へ連れ込む悪霊だとするならば、いささか言動が間抜けすぎる。  青年の顔に、ゆっくりと笑みが広がった。この犬が何者かは分からないが、神にしろ神の使いにしろ他の何かにしろ、――付き合ってみる価値はありそうだ。  「いいだろう。」 踵を返し、ラーネフェルは町へ向けて歩き出した。「ついて来い」  黒犬は腰を上げ、音も無く後に従った。西の地平線へ向かう太陽の舟から発する低い光に照らされて、青年の影が長く伸びる。その影にぴったりと同化するように、犬は、そこにいた。
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