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◎天羊の章(2) 相剋
カイが手にした重たい石の棍棒は、今はもう、儀式にしか使われないような大昔の武器の形をしている。どこかの古い墓から持ち出してきたものだろうか。彼はそれを、屈託ない笑みを浮かべながら片手で弄ぶ。
「いつか戻ってくるとは聞いていたけれど、こんなに早く戻ってくるとはね。それに、ずいぶん出世したように見える。」
「…お前が、本当に”カムテフ”なのか? 本当に?」
「ああ、そうさ。街を燃やして、お姫様も攫って、婚礼をめちゃくちゃにしてやった。――そうそう、若様がいなくなったあと、貧民街で噂を聞いたんだ。全然知らなかったよ、”杖の貴人”だって? どうやって若様が無事にうちのボロ家までたどり着けているのか知ったときは、爽快だった」
カイは一歩ずつ、近づいてくる。ラーネフェルは剣に手をかけてはいたものの、どうしてもそれを抜くことが出来なかった。生まれてこの方、ずっと傍で生きてきた乳兄弟なのだ。互いのことは何でも知っていると思っていた。心が通い合っているのだと。
確かにここのところ、カイは身分の違いを気にして自分から距離をとろうとするような素振りを見せていた。けれど、こんな僅かな間に豹変してしまうことがあり得るだろうか。
昨夜見かけた後姿が、気のせいだったらどんなに良かったか。
今、目の前で起きていることが幻だったら――。
「答えてくれ。優しかったお前が…なぜこんなことを?」
「分かってしまったからさ。優しさなんて何の意味も無い。この世界では…正直であればあるほど損をするだけだとね」
近づいて来たとき、ラーネフェルは、カイの目が笑っていないことに気がついた。以前と変わらない黒い瞳に浮かんでいるのは、かつては無かった深い絶望と、怒りと、そして哀しみ。
腕が振り上げられ、鈍器が手加減もなしに振り下ろされる。ラーネフェルはそれを、横とびに飛んで避けた。冷たい夜気に熱い殺気が入り混じる。
カイは、本気だ。
「今のこの世は、持てるもののためだけにある。若様だってもう、気づいてるんだろう? どんなに足掻いたところで、おれらは死ぬまで惨めな身分さ。生きていたって、死んでからだって、どこにも安息の地なんかない。お腹を空かせながら生きて、死ねば墓に詰め込まれて、そのあとは沙漠の塵だ!」
ラーネフェルの足元で、灰色の犬が吠える。
『何をしてる。敵に手加減するな、殺されるぞ』
「…カイ、お前は」
「それで、同じ境遇の仲間を集めたのさ。楽しかったよ。浮かれ騒いでる貴族と王に復讐してやろうと言ったら、みんな大喜びだったぜ。婚礼なんてクソくらえだ。贅沢三昧の連中に一泡ふかせてやった。神なんていやしない! 神殿にも宮殿にも、簡単に忍び込めたからな!」
セドが、気に入らないというように鼻を鳴らす音が聞こえた。これだから人間は、などと、ぶつぶつ文句を言っている。だが、ラーネフェルにはカイの気持ちが痛いほど伝わってきた。
「すまなかった。…お前がそこまで生活に苦労していた時に、俺は何も」
「よしてくれ。同情なんて要らない」
形だけ浮かんでいた笑みが消え、カイは、深い怒りを込めた眼差しでかつての乳兄弟を見つめた。
「若様にだけは感謝してるよ。あんたのお陰で母さんの葬式は出せたし、この世がどれだけ腐ってるか知ることも出来た。――誤算だったのはさ、若様がこんなに早く、しかも出世して戻ってきてしまうことだったんだ。…どうしてあんな王に仕えようなんて思ったんだい? 戻ってこなければ、こんなことにならずに済んだのにさ」
「もうやめろ、…カイ」
「ジャマしないでくれよ。あんたさえいなければ、残りの連中は大したことないんだから。今度こそ王宮を燃やして、神殿にも火をかけてやるんだ。あんな神もいない神殿なんて、要らないだろう?」
「どうしてそんなことを言うんだ? 神殿に火をかけるだって?」
言いかけたラーネフェルは、はっとした。
「…神殿」
ネフェルウが姿を消す前、最後にいたのは、アメン大神殿のはずれだった。
「…ネフェルウを攫ったのは、その時か。」
「ネフェルウ…? あのお姫様のことか」
「そうだ。どこにいる」
ラーネフェルの声の調子が変わったのに気づいて、カイは怪訝そうな顔をした。
「何だい。あの綺麗なお姫様のことにだけはやけに執着するんだな」
「当たり前だ。…彼女は俺の、血の繋がった妹なんだから。」
明らかに、カイの表情に動揺が走った。
「本当の? あれから、血の繋がっている家族を見つけたのか」
「ああ…。」
武器を握った腕が降りた。
カイは、一つため息をつく。
「…ずるいよな、あんたは。何もないふりをして、何もかも手に入れるんだ。おれにはもう、誰もいないっていうのに――」
夜風が吹き抜けて、水辺の草がざわざわと揺れる。崖のほうは既に静まり、松明の明かりがゆっくりと動いているだけになっている。古い墓所に隠れていたカムテフの仲間たちは、ほとんど捕まってしまったようだった。
ラーネフェルの肩越しにそれを確かめると、カイは、武器を再び掲げた。
「だったら尚更、返してやるわけにはいかないな」
「カイ、…」
「残念だったな! 人質は、あそこには居ない。おれに戦って勝てたら隠し場所を教えてやるよ!」
吼えながら突進してくる青年の腕を掴み、その衝撃を受け止めたラーネフェルのサンダルが泥にめり込んで滑る。なんという力だろう。まるで本当に、牡牛が乗り移ったようだ。
神殿の中庭で、祭りの日、突進してくる聖牛に向き合った時の記憶がよみがえってくる。
死にたくない、という思いと同時に、ふさわしい死を迎えたい、という願いを持つ、…そう、彼は、…死に場所を探している。
『ラーネフェル、――』
「だめだセド。お前は手を出すな!」
奥歯を食いしばりながら、ラーネフェルは、体の底から力を集めてカイを押し返そうとした。どうせ武器を抜いたところで、剣と棍棒ではこちらが不利だ。それに、カイを傷つけたくない。たとえ罪を犯した今でも、彼にとっては、幼い頃から本当の兄弟のように思ってきた相手なのだから。
最後に見張りがやってきてから、どのくらい経っただろう。
外が妙に静かになったのに気づいて、ネフェルウは、おそるおそる外の気配を伺った。
閉じ込められているのは、明かりも無い薄暗い小屋の中だった。ナツメヤシの木を乱雑に組み合わせ、石と泥を積み上げて作った半地下の、家とも呼べないような小屋。入口はヤシの葉を編んだ敷物で隠されて、ついさっきまでは、外からは微かな話声や人の気配が伝わって来ていた。
ここは、彼女を攫った賊たちがねぐらにしている場所のようだった。船で川を運ばれた感じからして、ウアセトの下流のどこかだろう。目隠しをされたまま、担いでここまで連れてこられたのだ。目隠しはなんとか外すことが出来たが、腕と足は縛られたまま。外の様子を確かめようにも、腕が柱に括り付けられていて、無理に動けば柱ごと屋根の下敷きになりかねない。
「イアーレト、外はどうなっているか分かる? 私、まさかこのまま放置されるんじゃないわよね」
『まさか。…ですが、人間の気配が消えているのは確かなようです』
腕にまきついた白蛇が、舌を出し入れしながら空気を調べている。
『もしかしたら、助けが来たのかもしれません。』
「お兄さんかしら?」
『おそらくは。犬の臭いニオイがしますから』
蛇の毒舌に、ネフェルウは思わず苦笑した。
「仲良くしなさいよ。昔からの知り合いでしょう」
『不可能です。何度、あいつに踏みつけられたと思っているのです』
なんとか体をよじって、ネフェルウは後ろ手に縛られた手がどうなっているか見ようとした。手を縛り付けている縄は、おそらく、藁をよって作られている。近くに尖った石でもあれば、縄を切って抜け出すことはできるはずだ。
「ん、んん…外れない…ああ、もう。ちょっと! 誰かいないの?! こんな穴倉に置き去りなんて酷いわ! 出しなさい!」
声が半地下の穴の中に空しく反響し、やがて、しんとした沈黙が返ってくる。
「…本当に、だれも居ないのかしら」
だんだん不安になりかけてきたとき、入口を覆っていた敷物が、僅かにめくれて、誰かが顔を出した。
「!」
小さなランプひとつを手に忍び込んできたのは、泥に汚れた顔をした少年だった。その顔には、見覚えがある。
「あなた、前に王宮に忍び込んできた…?」
「しっ。黙ってて」
少年は懐からよく磨いた黒光りする石の刃を取り出して、ネフェルウの腕を縛っている縄を切り始めた。間もなくして、ぷつりと音がして、両手の自由を奪っていた枷の感覚が消えた。
次は足のほうだ。こちらも、同じようにして石の刃で切りつける。
「あなた、…どうして? どうしてまだ、こんなことをしているの」
「ごめんなさい」
少年は俯いた。
「もらった髪飾り、親分に取られちゃった。そんなもの、貰ったなんて言ってどこかのお店に出したって信じるわけないって。どうせ"盗んだんだろう"って言われて捕まって、ムチで打たれるだけなんだって…」
「そんな…」
「でも、そうなんだ、本当に。ここにいる人たちは皆、そうやって嵌められるか騙されるかして、ひどい目に遭ったことがあるんだ。」
そう言って、諦めたように微笑んだ。
「おれたちは、ずっとこのまんまだよ。まっとうな暮らしなんて無理なんだ」
「無理…」
「あ、でも貰った食べ物は隠しといて、一人でこっそり食べたんだ。あの時は久しぶりに腹いっぱいになれたよ! だからさ、そのお返しに、お姫様を…」
ネフェルウは、思わず両手で少年を抱きかかえていた。
「え?!」
「…ごめんなさい。私、あなたたちの暮らしを何も知らなかった。ただ施しものをしさえすれば助けてあげられると思ってた」
「は、離して。そんなのいいよ、当たり前だよ。おれ、体も洗ってない、汚いから…」
顔を真っ赤にして、少年はうろたえている。
「名前を教えて、あなたの名前」
「おれの? …名前は、ミウだよ」
「そう。じゃあミウ、行きましょう。外へ案内して。私は戻らなくちゃ。戻ってやることがあるの」
「う、うん」
長い衣の裾をたくし上げ、ネフェルウは、真っすぐに立ち上がった。やるべきことがある。――王の婚約者として、その地位を利用してなら、きっと出来るはずだ。
そっと外へ抜けだすと、辺りは、物が取り散らかされたような状態で放置されている。見張りまでが全員、大急ぎでどこかへ行ってしまったような痕跡だ。
「こっちだ」
ミウの手引きで、ネフェルウは崖を回り込むようにして走っていた。谷には、風に乗って、誰かが争っているような音が響いている。明かりを掲げた衛兵の姿がちらりと見えた。
「あれって、ウアセトの兵士?」
「多分、そう。急襲をかけられたんだ。ものすごく効率的に追い込まれて、たぶんもうみんな捕まっちゃったと思う。…お姫様も、あの人たちのところに行きたいよね?」
「ううん、私、探したい人がいるのよ」
顔を上げ、ネフェルウは腕のあたりに絡みついている蛇に向かって囁く。
「イアーレト、お兄さんは何処か分かる?」
『むむ。嫌な気配ですねえ』
「え?」
『セドが手をこまねいています。ふむ…』
「戦っているの? 場所を教えて」
蛇は、ちょっと困ったような顔をした。
『ネフェルウ、貴女が行っても――』
「いいから。早く会いたいのよ、どこなの」
『…崖を降りて、村のほうへ。近くに川から引き込んだ水路がありますね。ここと村の中間です』
それを聞くなり、ネフェルウは、衣のすそをたくし上げて腰のすぐ下あたりで固く縛った。ミウが驚いて手で顔を覆う。どうせ暗くて、誰にも見えはしない。岩に手をかけながら斜面を滑り降りると、確かに、遠くにうっすらと村らしき建物の影が見えていた。
裾を上げたまま、ネフェルウはそちらへ走り出した。
『ああ、将来の王妃が…なんという格好で』
蛇が嘆く声も今は耳に入らない。どこだろう。どこかから、牡牛の吼えるような声と犬の唸り声が聞こえてくる。
音のほうへ近づいていくと、闇の中、もみ合う二つの影が浮かび上がってきた。ラーネフェルと、もう一人は―― 格好からして、ここへ自分を攫ってきた賊の頭領だろうか。
組み合う二人の手が離れ、賊が棍棒を振り上げる。
「やめて!」
思わず、ネフェルウは叫んだ。手が止まり、二人の青年は同時にこちらを振り返る。
「…ちっ」
舌打ちして、相手の男は暗がりへ走り出していく。
ほっとした顔になると同時に、ラーネフェルはその場に膝をついた。慌ててネフェルウが駆け寄る。
「お兄さん!」
「なに、ちょっと力が抜けただけだ」
だが、すごい汗だ。それに腕にも、擦り傷や痣のようなものがいくつも出来ている。
膝に手をかけて立ち上がりながら、彼は、目の前に立つ少女を安心させようと、微笑みを向けた。
「大丈夫か。どこか怪我は」
「何も…、閉じ込められていただけよ。それきり誰も来ないから、逃げられたの。お兄さんは? お兄さんこそ、怪我してないの」
「こっちも、かすり傷だ」
ちょうど谷のほうから、捕らえた賊を縄につないだ兵士たちが引き上げてくるところだった。指揮官のラーネフェルが人質になっていた王の婚約者と供にいるのを見て、兵士たちは歓声を上げる。彼が助け出したと思ったのだろう。
ラーネフェルの視線がネフェルウの後ろにいる少年に向けられるのに気づいて、彼女は、慌ててかばう様に少年の前に立つ。
「あ、あの。この子は…」
「大丈夫、捕まえたりはしないさ。俺の従者ということにしておこう。」
「…ありがとう」
「お前を助けてくれたんだろう? それなら、俺にとっても恩人なんだから。」
ミウ本人だけは、何が話されているのか分からないまま、ぽかんとしているばかりだった。
こうして、街で起きた大火から何日も立たずして、誘拐された王の婚約者は取り戻され、賊は捕縛された。残るは、逃げた首謀者カムテフの捕縛だけだった。
けれど、その後の追撃にも関わらず「牡牛」の行方は杳として知れず、広範囲な目撃情報の聞き込みにも、手がかりが聞かれることはなかった。
そして――いつしか、日は、過ぎていった。
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