◎天羊の章(3) 静穏

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◎天羊の章(3) 静穏

 日差しの角度が変わり、肌を焼く太陽の熱も緩み始める。  川べりの畑を覆っていた水が少しずつ、引いてゆき、黒々とした畑の土が姿を現し始めていた。  王が病のため婚礼を延期するという布告が成されてから、半月ほど。町はどこかしらけた雰囲気で、祭りの一ヶ月を終えたあとの神殿も、人はまばらだ。  カムテフに焚きつけられて街で狼藉を働いた者たちは、ラーネフェルが助命を嘆願し、聞き届けられていた。その代わり、罰として兵役を――南の国境、クシュの国へと赴くことを申し付けられていた。  事実上の流罪判決ではあったが、誰もこれを不服とはしなかった。もとより死は覚悟していたからだ。命が助かるだけでもありがたい。それに兵になれば、少なくとも、飯には困らない。  クシュへ物資と食料を送る船が仕立てられ、罪人たちは、ラーネフェルからウェニアメンへの言伝とともに南へと送られていった。かつて砦でともに寝起きしていた若者が将軍に任命されたと知ったら、ウェニアメンはどんな顔をするだろう。思えば、奇妙な縁だった。彼がかつて盾持ちをしていたという王は、おそらく、ラーネフェルにとっては実の祖父だったはずなのだ。  婚礼が延期されたこともあり、インオテフの息子セネブカイ将軍は、既に北の国境を守る任務へと戻って行っている。本当なら、ラーネフェルもすぐにも南の国境へ戻りたかった。けれど彼は、王の警護という名目のもと、取り立てて任務もなく都に留め置かれている。  毎日自宅で目覚め、町へ出る。それはある意味で、以前と変わらない生活でもあった。違っているのは、通う先は王宮だということだ。  中庭を越え、豪華な彩色のされた王の私室へと続き狭い廊下を過ぎると、薄い御簾のかけられた部屋が見えてくる。  「あ、いらっしゃい」 ラーネフェルが入ってゆくと、天蓋つきの寝台の傍らに腰を下ろしていた少女が立ち上がった。ネフェルウだ。インオテフのつけた侍女たちを苦労して入れ替え、少しばかりの自由を手に入れた。今は、毎日のように王の部屋を訪れていた。  彼女が訪ねてくるようになってから、病人の部屋はすっかり様変わりした。  香の変わりに川べりで積まれた花が飾られ、開け放された窓からは、明るい日差しが差し込んでいる。  「お加減はいかがですか」 声をかけながら、ラーネフェルは寝台の王に横たわる若者を覗き込んだ。  「ネフェルウが居てくれるお陰で、ずいぶんましになったぞ」 青年王は、そう言って白く痩せた顔に笑みを浮かべる。  「お前も来てくれるからな」 ここのところ、王の体の具合は、ずいぶん良くなっているように見えた。蝋のように白かった肌には少し赤みがさし、日に何時間かは床から起き上がれるようにもなった。食欲も戻ってきているという。  「今日も街の話を聞かせてくれるか? 余の民はどのような様子なのだ」 寝台脇の椅子に腰掛け、ラーネフェルは口を開く。  それは、もう、日々の日課と化している仕事だった。  ラーネフェルは、語り部として二人に外の世界の話を聞かせる。彼が今、取り組んでいるのは、貧民街の生活の向上や失業者のための職探し。それに街の衛兵たちの質の向上――。神殿の外を知らずに育ったネフェルウも、王宮の外を知らずに育った王も、ともに彼の話を目を輝かせて聞いた。二人は、本当の意味では何も知らない。街のはずれに暮らす貧しい人々の苦しい生活も、灼熱の太陽の照りつける国境の砦のことも。けれど、知ろうとし、何を為せるかを考えようとしてくれる。  王とは、かくあるべきものなのだとラーネフェルは思った。  「王」とは――民のことを考え、行動するものなのだと。  相槌を打っていた王の声が途切れ、やがて、静かな寝息に変わる。  ネフェルウが立ち上がり、顔を覗き込んだ。  「眠ったみたい」 うなづいて、ラーネフェルは立ち上がった。今日の仕事は、ここまでだ。  王の寝室を辞すとき、ネフェルウがついてきた。二人は並んで、狭い廊下を抜けた先の中庭までやって来る。  「――持ち直すだろうか」  「わかりません」 少女は、中庭の木立を見上げて呟く。  「すべては神の思し召しでしょう、と御殿医は」  「…そうか。」 あの青年は、生まれつき体が丈夫ではない。過酷な王の仕事をこなせる体力はもとより無く、こんな王宮の奥に篭っているせいで、なおさら健康を害してしまっている。  白い肌に、細い腕。  その姿は、どこか兄レニセネブに似ているとも思った。王の母はアンクゥの妹なのだから、レニセネブともいとこ同士なのだ。  「目を覚ましてるときは、いつもお兄さんのことを話すのよ。今どうしてるんだろう、今日はもう来ないのか、って」 そう言って、少女は困ったように微笑んだ。  「お兄さんが頼りなの。陛下は宰相のことをずっと恐れてる。お兄さんや私が側にいなければ、きっと前のように言われるままの人形に戻ってしまう」  「王の周囲には、自分のことしか考えない身勝手な家臣が多すぎるんだな。人を入れ替えようも…候補が居ないか」 それに、下手に動きすぎると、あらぬ噂となって父や兄も被害を被ることになる。外から見れば、アンクゥが、己の甥である王を使って息子を将軍に仕立て上げ、政治と軍を共に手中に収めたようにもうかがえる。既に王宮内では、これは宰相インオテフと大臣アンクゥの権力争いだ、などと噂する声もあるという。  だが、ここは、そんなかまびすしい風聞も届かず静かだ。木々の間を飛び交う鳥たちの声が、中庭に響いている。  「そういえば、あの人… 私を攫った、あの賊の頭領は、まだ見つからないんですか」  「ああ」 ラーネフェルは僅かに表情を曇らせた。  「しばらくすれば、この町に戻ってくると思ったんだが」  殺さず捕らえよという命令も空しく、カイの行方は、あれきりふつりと途絶えてしまった。あの様子では、再び仲間を集めてよからぬことをしないとも限らない。そうなる前に、自分の手で捕らえたかった。  「あれは――俺の乳兄弟だったんだ。困窮していたのを知っていながら、何もしてやれなかった。殺したくはない」  「…きっと、仲直り出来ます。そうでなければ悲しいから」 兄の手をとり、少女はそう言って微笑んだ。  「それでは私、陛下のところへ戻りますね」  「ああ。あの方を頼む」 ネフェルウが奥に戻っていくのを見届けてから、ラーネフェルは、ちらと足元の犬に目をやった。  「お前は、一族の守護神だったんだろう? あの王だって一族の血には連なっているはずだ。守護しないのか」 灰色の毛並みの犬は、フンと小さく鼻を鳴らした。  『走れぬ王は王ではない』  「…好き嫌いか。」 苦笑して、ラーネフェルは歩き出す。  『好き嫌いの問題ではない、資格の話なのだ。かつては長く王位にあった王は、老い衰えていないことを示すため、私とともに表を走り、民にその資格を示したものだぞ』  「ほう。それは面白い神話だな。最近は…そうか、そもそも長く王座にある王が居ないのか」  『そもそも自ら走ろうという王さえいないのだ。家を出るのにいちいち輿に乗る。話にならん』 音もなく軽快な足取りで歩きながら、犬はフンと鼻を鳴らす。ラーネフェルは思わず笑いそうになった。その気質は、ネウェルウについている守護神イアーレトと実によく似ている。似た者同士ゆえに仲が悪い、というわけだ。  王宮の敷地は広く、建物の中はひどく入り組んでいる。まるで迷宮さながらで、慣れなければ案内人なしに歩けはしないだろう。ラーネフェルが一人で出歩けているのは、ひとえに、下町の入り組んだ道で慣れているからだ。それと、足元にいる"物覚えのいい"山犬の嗅覚のおかげか。  彼が向かおうとしているのは、つい先日から王宮内に寝泊りするようになった、兄のレニセネブのもとだった。  廊下を渡ってゆくと、建物の雰囲気が変わる。乾いた草のような紙の香りと、墨をすり潰した独特の匂い。書記たちが集まる部屋は、いつもこんな風に紙と墨の匂いに満ちている。  「財務長殿」 たどり着いた部屋の入口に立って声をかけると、会計簿を手に書記たちに指示を出していたレニセネブが顔を上げた。戸口に弟の姿をみとめると、急いで残りの指示を出し終えてこちらへ駆けてくる。  「お忙しいところ、邪魔して申し訳ありません」  「なに、将軍殿の用事に比べれば大したことではありませんよ」 一瞬だけいたずらっぽい表情を浮かべ、レニセネブは、弟の肩に手を回した。  「こっちへ」 廊下の左右には、同じような巻物だらけの部屋が幾つも連なり、巻物を抱えた書記たちがその間を忙しそうに歩き回っている。  ここは、国家の運営に関わる書類を管理する書庫だ。書簡、会計簿、地図、「記録する」という行為に関わるすべての書類が集められている。上等な紙は貴重だが、王室の書庫ともなれば、その紙は毎日、惜しげもなく大量に消費されている。そして日々書き留められた様々な記録の巻物は、壁の棚にびっしりと並べられている。  レニセネブは、書庫を通り過ぎた先にあるテラスへと進んだ。休憩時間にはまだ早いせいか、ほかに人の姿は無い。  「例の件の記録、見つかったぞ」 周囲に誰もいないのを確かめてから、彼は手短にそう言った。  「お前の予想した通り、祭儀が途切れたのはお祖母さんが亡くなった頃だった。七年ほど前、大神官殿が養女を迎えた時期と一致している」  「やはり、そうですか。」 頼んでおいたのは、セドの祠堂が放棄された時期を調べるという依頼だった。  大神殿の奥に作られた祠は、そこで初めてネフェルウと会った時にはまだ、無事だった。その後、この十年ほどの間のいつかの時に、どういうわけか意図的に中身が空っぽにされ、傷つけられたようだった  「命じたのは誰なんですか?」  「記録では、王からの命令、という形になっていた。祠堂に祭られていたのは、かつてイティ・タァウィで王家の守り神だった神なのだから、その子孫に了承を取ること自体は正式な手続きだ。」  「その頃に即位した王たちも、少しはセドの加護は受けていたはずなのに…ですか?」  「ああ。生き残った王子たちはいずれも軍人では無かったようだから、興味が無かったのかもしれない。――ただ、確かに少し、違和感がある」 言いながら、レニセネブは懐から古い巻物を慎重に取り出した。端は欠け、全体的に黄ばんだ古い会計簿だ。手荒に扱うと、崩れてしまいそうにも見える。  「記録によると、指導の中にあった石の神像は、砕かれて転用されたようだ。金細工と捧げものの台――布の類も」 足元で灰色の山犬が唸る。  『ただ忘却するに飽き足らず、我が住処を根こそぎ破壊し、持ちさったというのか』  「…その通りだ。なぜそれほどまでに徹底して、何もない状態にする必要があったんだ? あの祠堂はわざと傷つけられ、ゴミ捨て場にされていた。まるで、意図的に忘却させようとするかのように」  「、というより、まさにその意図だとすれば、正しい手順だろうな。」 巻物から視線を上げ、レニセネブは、弟を見た。  「当時すでに、この都で最も権力を持っていたのは宰相のインオテフ殿だ。王たちはすべて、彼の支配下にあった。――必要だったのは、自らの守護神を持つ、完全な形の王ではない。王の肩書だけを持つ、都合のいい人間だけだった。」  「……。」 ラーネフェルは、小さく首を振った。そんな身勝手な理由で、セドは、名前どころか存在までも抹消されようとしていたのだ。  「ところで、王は一体、これからどうするつもりなんだ? お前は、何も聞いていないのか」  「何も、とは」  「宰相から実権を取り戻そうとしていることは、見ていれば分かる。だが、それには手駒が足りない。インオテフとその息子を失脚させるだけの権力も、口実も、あのやり手の政治家に対抗出来るだけの実績や人望も」 レニセネブの言葉は辛らつだったが、確かに、それは事実だった。王冠を戴こうとも、王は所詮、一人の人間だ。自らの思いだけでは人は動かせない。意志だけでは、何も変わらないのだ。  「それにもう、噂になりつつある。お前が足しげく王のもとに通っていることも、将来の王妃様とやけに仲がいいこともだ。ことにお前は、あの子とそっくりだからな」 ラーネフェルは思わず笑みを浮かべた。  「自分では全く気がつきませんが。そうなんですか?」  「少なくとも、私とお前よりはな」 少し笑って、レニセネブは柱にもたれながら袖口に手を入れた。少し前なら、こんな風に仕事の合間に話をすることなど、考えもしなかつた。  ――こんな風に、本音で兄と話し合える日が来ようとは。  「父上は、自らが権力の座にとって代わろうとしているという疑惑を払しょくするために、王のご結婚とともに引退すると仰っている。それを機に、お前が実子ではなく、死んだことになっているセケエンラー王子だったことも公表したいと」  「何故そんな――今更ですか? 俺の生まれなど、証拠も無いというのに」  「なに。人が信じようと、信じまいと、ひとたび真実が明らかにされれば、現実はそれに沿うだけだよ。それに父上は、根っからの政治家だ。公表することで、お前を正式に王の後継者候補に仕立てたいのだろう。そうすれば、たとえ王が早くに身罷(みまか)っても、継承者不在による空位だけは避けられる。王権の不在による混乱、それだけは二度と引き起こしてはならないと。…いまのこの国の状況でそれが起きれば、今度は、もっと多くの領土が失われる。」  「……。」 ラーネフェルは、無言に踵を返す。  「行くのか」  「ええ」  「戻ったら母上によろしく伝えておいてくれ。やることが山積みで、どうやら今日も戻れそうに無い」 小さく頷いて、彼は兄と別れた。足元を、音も無く灰色の犬がついてくる。   『これで、私が実体を無くした理由は明らかになったな』  「そうだな。神像が砕かれてしまったとなると、また新しいものを作らないといけないのか」 耳をぴんと立て、犬は、ちらりとラーネフェルを見上げる。  『作ってくれるのか?』  「そりゃな。お前には、これからもずっと側にいてもらいたいし」 返事は無かったが、やたらと弾んでいる尾を見るだけで、犬が喜んでいることだけは分かった。そう、失われた神像は元に戻されねばならない。同じあの祠堂は使えるだろうか? また、供養がないと勝手に廃棄される可能性を考えれば、今の屋敷のどこかに作ったほうがいいのだろうか。  すれ違う人々が頭を去れ、衛兵たちが緊張した面持ちで居住まいを正す。考えながら大股に歩くラーネフェルは、自分の周囲で囁かれる噂にも、人々の視線にも、全く気づいてはいない。  参道と交わる道まで来たとき、彼は、突然と足を止めた。  「…?」 振り返り、大神殿の白い大門を見やる。  『どうした』  「…いや」 耳元で、誰かに話かけられたような気がしたのだ。気のせい、だろうか?
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