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◎天羊の章(4) 謀略
その夜はやけに風が強く、川向こうの荒野から吹く風が幾度ともなく、砂とともに街に押し寄せていた。締め切った窓の隙間からも風が忍び込んで、床を黄色く染めてゆく。小さな叫び声とともに、階下で誰かが走る音がした。
「ああ、もう。やだわ」
セネブティの声だ。
ラーネフェルが降りてゆくと、母が、風でどこからともなく紛れ込んだ落ち葉を片付けるよう指示しているところだった。
「どうかしましたか」
「あら、ごめんなさい。何でもないの。ただもう、さっきからずっとこの調子で――」
バタン、と大きな音がして、どこかの戸の隙間から風が押し入ってくる。それとともに、せっかくかき集めた落ち葉や砂が舞い散り、小間使いたちがあわてて走り回る。セネブティは、ため息をついて首を振った。
「掃除は、明日の朝にしたほうがいいかしらね。掃除するたびにこれじゃあ。…もう寝ましょう。じきに風も止むわ」
小間使いたちを下がらせ、セネブティ自身も部屋に戻ってゆく。時間をかけて、ようやくここまで精神状態が回復した。父が、今のラーネフェルは実子ではないことを公表する気になったのも、セネブティが吹っ切れてくれたお陰なのだろう。
その父は、最近ではきちんと家に戻ってくるようになっていた。
今日も、夕餉のあと、先に休んでいるはずだ。
近々引退するつもりらしい…とレニセネブが言っていたが、確かに、このところ、あまり長時間王宮には詰めていない。王宮には息子のレニセネブが残っているとはいえ、まだ老齢というほどの年でもなく、引退には早すぎるのではないかとラーネフェルは思っていた。
風が、どこかでばたんと大きな音を立てる。
母と同じく階段を上がりかけたラーネフェルは、ふと、廊下の隅に吹き寄せられている落ち葉の小山に目を留めた。落ち葉の中に、汚れた布の切れ端が混じっている。かがみ込んで拾い上げると、その布きれからは、強い脂のような異臭がした。
セドが近づいてきて、ひくひくと鼻を動かす。
『火の匂いだ』
「…火?」
『外だな』
表には、風の唸る音が響いている。ラーネフェルは、風の吹いてくる裏口のほうに向かった。戸と床の隙間から吹き込んでくる強い風が砂を運び、それと同時に、焦げ臭い匂いをかすかに運ぶ。
まさか。
閂を押しやり外に飛び出すと、匂いはいっそう強くなった。目を凝らすと、闇の中、裏通りに面した狭い路地のあたりに赤いものが踊るのがちらりと見えた。月は黒雲に覆われ、人通りもない。強い風にあおられて、火は見る間に大きくなる。
「火事だ!」
駆け戻って、ラーネフェルは裏口から屋敷の中に向かって怒鳴った。
「起きろ、火がついてるぞ!」
寝床に入ろうとしていた家人たちが慌てて飛び出してくる。
「裏口のほうだ。早く――」
と、そのときだ。暗がりの中で誰かが動いた。
『ラーネフェル!』
セドが吼え、地を蹴った。
はっとして、彼はとっさに、後ろに一歩、後退った。
その胸元を鈍い輝きを持つ刃が掠める。襲撃者と、ラーネフェルの間には、飛び込んできた山犬の体があった。
どさりと犬が地面に落ちる。だが実際は、音などしない。武器に傷つけられた形跡もない。普通の人間は目に見えず、触れられもしない存在なのだ。
攻撃が外れたことを知って、襲撃者は顔を覆うマントを手で摑みながら、素早く闇の中へ姿を消す。
「待て!」
追おうとしたとき、ちょうど、家の中から次々と召使たちが飛び出してきた。
「うわっ、火が」
「早く水を!」
騒ぎに気づいた近隣の家々の入り口にも明かりが灯り、人々が、何事かと顔を出す。
「どうしたの、一体」
母も、寝乱れた髪を手で撫でつけながら出てきた。
「…吹き寄せられた落ち葉に、火種が落ちたようです」
「まあ。」
まさか、誰かが放火しようとしていたなどとは答えられず、ラーネフェルは咄嗟に嘘をついた。それに、自分が襲われたなど、まだ不安定なセネブティの前で言えるわけがない。
「この風であおられて、火が大きくなったようです。ご心配には及びません」
心配させまいと口ではそう言ったが、ラーネフェルには分かっていた。
これは、間違いなく自分たち一家を狙った殺意ある犯罪だ。
ふいをつかれたとはいえ、武器を持った賊に接近を許したのは、相手の動きが素早かったせいだ。それに、凶器は真っ直ぐにラーネフェルの心臓を狙ってきた。
(俺を狙ったのか? それとも父上を?…)
一つだけ確実なことがある。――あれは、カイや、彼の仲間の誰かではない。
「母上、ここはお任せしていいですか。」
「え? いいけれど」
「街のほかの場所も気になります。一回りしてきます」
「こんな夜に…。気をつけてね」
頷いて、ラーネフェルはいったん部屋に戻って身支度を整えた。だが剣に手を伸ばしたとき、彼は、ついてきた灰色の犬に、ずいぶん元気がないことに気がついた。
「どうした」
『…分からぬ。なぜか、体に力が入らないのだ』
寝台の側でぺたりと床に腹をつけて、セドは、はっはっと浅い息をつきながら舌を垂れている。
「さっき庇ってくれただろう。見えないとはいっても、お前だって傷を負うことがあるのかもしれない」
『そんなはずはないのだが…』
犬は黒い口もとを歪めながら苦しそうにしている。腰をかがめて、ラーネフェルは、灰色の毛並みを撫でた。
「少し休んでいろ。心配するな、お前がいなくても、そう簡単に遅れをとったりはしない」
屋敷を出ようとしたとき、表玄関のほうから、召使が来客を対応する声が聞こえた。強い風が吹き込んでくる。
足音で振り返った召使は、ラーネフェルの姿を見て、軽く一礼して脇に退いた。玄関に立っていたのは、王宮からの使いらしいこざっぱりとした姿の家令だ。けれど、今は明らかにうろたえている。
「お出になるところだったのですね、ラーネフェル殿。間に合ってよかった、お迎えに上がったのです」
「迎え?」
「すぐにいらしてください。アンクゥ大臣もご一緒に、王宮へ――」
夜がざわめき、色濃い闇が落ちてくる。街を通り抜ける砂嵐は、西の地平から死の呼び声を伝える。
不吉な予感が迫っていた。
駆けつけたとき、寝台に横たわる青年の脈はほとんど無く、命の火は最早網付きようとしていた。
部屋に集められた大臣、宰相、大神官など主要な人々は、なすすべなく、死の暗がりへ沈もうとする若い太陽を眺めている。寝台の傍らでは、ネフェルウが両手で顔を覆って、静かに涙を落としていた。
ラーネフェルが寝台の足元に近づいていくと、王は目を開け、弱々しく微笑んだ。
「来て…くれたのだな」
「……。」
黙ったまま、ラーネフェルはシーツの上に投げ出されたままになっていた、血の気の失せた手を取った。その手のあまりの冷たさに言葉も出ない。なぜ、急に容体が悪化した? 昼間は、あんなに元気だった。
微笑みながら、痩せた青年王は、再び目を閉じた。
「余は幸せだ。余のために泣いてくれる家族がいて、…そなたにも会えた。…外の世界の話は楽しかったぞ」
「元気になれば、自由に外に出られます。お気を確かに」
「…もうよいのだ」
青白い口元に笑みを浮かべたまま、王は静かに言った。
「さいごの頼みを聞いてくれるか、ラーネフェル。余の葬列の先頭で、豹の皮を纏い、香を掲げよ」
部屋の中の空気が動いた。はっとして王を見つめるもの、青ざめた顔で天井を仰ぐもの。
葬列の先頭に立つということは、喪主になるということ。
それはすなわち、亡き王の後継者として、葬儀を執り行うということ――。
「待って」
ネフェルウが去り行く魂の気配に気づいて、小さく叫んだ。そして身を乗り出し、覆いかぶさるようにして青年の頬を叩いた。
「まだ眠ってはいけません! まだ――」
握り締めた手に残っていた最後のぬくもりが遠ざかり、力が失われてゆく。
「嫌…どうして…!」
少女は、寝台の端に突っ伏して、叫ぶようにして泣き出した。固唾を呑んで見守っていた家臣たちも、王づきの召使いたちもみな、吐息を漏らした。女官たちのすすり泣く声が部屋の隅々から響いてくる。
「話が違う」
ぽつりともらしたのは、アメン神殿の大神官。ネフェルウの養父だ。青ざめた顔でぶるぶると震えながら、傍らの宰相インオテフを見上げる。
「娘は王妃になれるはずだった。なぜ、こんなことに――」
「人の運命は神々が決めたもう、インニ殿」
乾いた口調で言い、インオテフは、ふいとマントを翻して部屋を出てゆく。大神官や神官たちも、大臣たちもだ。彼らには悲しむ暇など無い。やるべきことは山積みなのだ。
王が死んだ。
すぐにも国内に伝令を走らせ、葬儀の支度をし、次なる王を立てる準備に入らなくてはならない。王の喪は、慣例として七十日。その間に葬祭の儀式はすべて終えられ、王の喪が明ければ次の王が立つ。
だが、今のラーネフェルには自分が後継者として指名されたことよりも、目の前の”家族”の死の衝撃のほうが、何よりも大きく、その場から動くことが出来なかった。
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