◎天羊の章(5) 還昇

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◎天羊の章(5) 還昇

 哀悼の鐘が打ち鳴らされ、人々は喪章がわりに黒い布を額に巻く。  婚礼の準備はそのまま葬儀の準備になり、ウアセトの都には重苦しい空気が漂っていた。王の死は伝令によって街から村、村から町街へと布告され、やがて報せは南の砦や、北の国境にも届くだろう。北の地に領地を持つもう一人の王は、好機と見なせば攻め入ってくるに違いない。そうならないために、北の国境は、いつにも増して厳重に固められなければならなかつた。  死から数日後、王の遺体は清められ、葬送の舟に乗せられて川を渡る。  葬列には泣き女たちが付き従い、振り乱した長い髪な砂を振りかけて鳶のような甲高い泣き声を響かせ、胸を叩いて涙を流した。川の両岸には町の人々が並び、葬列を見送っていた。  遺体はこれから、西岸にある葬祭の施設に運ばれ、長い処置を経て”永遠の器”へと作り変えられる。乾燥させた体に香油をぬり、包帯を巻き、護符と呪文で整えて、棺に収められることになる。そして七十日のあと、次の王となる後継者が先頭に立って、棺を墓に納める儀式が行われるのだ。  王の遺体が、処理のために特別に建てられた豪華な天幕に運び込まれるまでの間、ネフェルウは、放心したように控え室で長椅子に腰を下ろしたまま、身じろぎもしていなかった。  「大丈夫か」 ラーネフェルが肩に手をかけると、少女は、力なく微笑んだ。  「――うん、心配いらないわ。なんだか、嘘みたいよ。まだ信じられなくて」 肩におかれた手に、自分の手を重ねる。葬列はまだ続いており、天幕には、王との最後の別れのために訪れる役人や貴族たちの列がひっきりなしに、出たり、入ったりを繰り返している。  「――私、結婚前に未亡人になっちゃったわ。どうしよう、これから」  「うちに来ないか」  「お兄さんの家?」 驚いたような顔をして、少女は顔を上げた。  「部屋は余ってるからな。母上は喜ぶだろう。嫌か?」  「ううん。…神殿にはもう、戻りたくないから、そっちのほうがいい。ねえ、子供のころの約束覚えてる? 大人になったら、お兄さんと一緒に暮らせるって」  「ああ」  「ようやく約束が叶うんだね…」 そう言って笑ったとき、少女の瞳から、大粒の涙がひとつ、零れた。  「だけど、こんな形では…望んでない…。」 腕に絡みついていた白蛇が、身じろぎする。  『私は嫌ですよ、あの臭い犬と一緒に暮らすだなんて』  「あら、私もう王妃にはなれないのよ。あなたは私と一緒にいる必要ないでしょ」  『冷たいですよ、ネフェルウ。あなたは王家の娘なのですから、どのみちお姫様には違いありません。他に守護すべき王妃も姫君もいないのですから、私の居場所はここですよ。』  「もう。そういうことなら、仕方ないわね」 二人のやり取りを笑いながら聞いていたラーネフェルは、ふと、思い出した。  「そうだ、――その、セドの様子がおかしいんだった」  「えっ?」  『そういえば、今日は見かけていませんねえ。腹でも壊しましたか?』  「そうかもしれない。あいつにそういうことが起き得るのかどうかは分からないが…。」 一度家に戻った時、灰色の山犬は既に、深い眠りについていた。ゆさぶっても起きる気配はなく、今も、まるでうなされているように、時折顔をゆがめながら部屋の隅に丸まっている。  その様子を聞いた時、鎌首をもたげた蛇の両目が、赤く怪しく輝く。  『…あれの神像はもう、無いのですよね?』  「そのはずだ。別の神像に使われてしまったと」  「イアーレト、何か分かるの?」  『いえ、思い過ごしでしょう。供物でも食べさせてやれば、そのうち元気を取り戻しますよ。』 ラーネフェルが去っていったあと、ネフェルウは、ちらと肩先にいる蛇に目をやった。  「本当に、心当たりはないの?」  『ある、といえば在りますが… 考えにくいのですよ。我々、守護神の力を無効化する呪詛があるのです。ただしそれには、相手の守護神の本質を、よく理解していなければ出来ない。神の寄り代たる神像を傷つけるとか、縁の深い人間にその神を汚させるとか、方法は非常に限られます。それに、祭儀に通じていなければなりませんので…神官か、それに準ずる者だけが可能でしょうね』  「神官…」 ネフェルウの視線は、青白い顔で天幕から出てくる養父、インニの上に止まった。ここのところ、宰相インオテフと何か二人だけで話をしていることが多く、今日も、何かを相談していた。大方、自分の次の見合い相手でも決めようとしているのだろう、とは思っていたが…何かが引っかかる。  インオテフとも、相変わらず犬猿の仲のままだった。  王の葬儀を整えるため、毎日のように顔を合わせてはいたが、形式ばった会話以外はしたことがない。嫡子は、もう一人の将軍を務める息子のセネブカイただ一人。それ以外にも、何人もの非公式な妻がおり、多くの子を成したと噂されるが、その子らが今どうしているのかまでは知られていなかった。  それにしても、これからどうなるのだろう。  インオテフは何代も前の王たちの時代から宰相を勤める古参の重鎮で、亡くなった若き王も、ほぼすべての政治を任せきりにしていた。王の後見人は王母の兄でもある大臣アンクゥだったのだが、実際に宮廷の権力を握っていたのはインオテフだ。  王の死後、アンクゥは引退を表明しているが、その後に即位するはずのラーネフェルは、インオテフに宮廷の権力を一手に引き受けさせるような、宮廷育ちの生易しい男ではない。  ――宰相はきっと、かつてのような特権的な地位では、いられまい。  話していた男たちの視線がこちらに向けられた。目が合った瞬間、ネフェルウは思わずぞっとして、思わず顔を伏せた。  『どうしました?』  「いえ。…何でもないわ」 冷たい目だ。あの目と毎日顔を合わせる気には、到底なれない。  未亡人の証として頭にかけた布を確かめ、ネフェルウはベンチから立ち上がった。  「行きましょうか。戻って、荷物をまとめましょう」 嫁ぐ先の無くなった王妃候補に、もう、価値は無いはずだった。王宮を出て行ったところで、誰も困るまい。  人が出払って閑散とした王宮に、一足先に戻ってきたラーネフェルは、閣議の間――そう名前がつけられていることを知ったのは、つい最近だ――から続く階段を下りてくる父と、階段下ですれ違った。  「父上」  「今日で最後だ。ここに出向くのもな」 妙に晴れ晴れとした顔をして、アンクゥは、薄くなった顎鬚に手をやった。本気で大臣職を退くつもりらしい。  「王の遺体は、ぶじ処理に入ったのか?」 ラーネフェルが頷くと、アンクゥは、僅かに遠い目をした。  「あれには、かわいそうなことをした。王の役職は、常人に耐えられるものではない。元々丈夫ではなかったうえに、命を縮めさせるようなことを」  「たとえ体は丈夫でなくとも、王の血を引く者です。たとえ全うできなくとも、本望だったでしょう」  「しかし最初からお前が就いていたならば、あれはもっと長生きできたかもしれない。――今日、議会に正式に了承を取り付けてきた。後を継いでくれるな?」 次の王になれ、という意味だ。  視線を落とし、答えを探す青年の手をとり、何かを押し付けながら、アンクゥは重ねるようにして言った。  「本来あるべきだった場所に戻れ、ラーネフェル。――お前のものだ。これでようやく、一つ償いが出来たな」 手を開いてみると、それは、金糸を編みこんだ細い額飾りだった。鷹の翼を象るように、細かな羽根模様をつなぎ合わせている。  次の王となる者の証、皇太子が身に着ける品だ。  ゆっくりとした足取りで去ってゆく父の背中を見送りながら、ラーネフェルは、帯を握り締めた。  家族との血の繋がりを疑いはじめた頃は、こんなことになるとは想像の片隅でさえ思いもしなかった。灰色の犬と出会ったあの日から、まだ、半年も経っていない。こうなることを、果たして、あの犬は予見していただろうか?  けれど、逃げるという選択肢はなかった。  この閉塞感漂う都で、平穏とは言い難い時代の中で、ただ流されて生きていくなどご免だった。たとえそれが血塗られた険しい道であったとしても、必ず、未来へと続く道を切り開く。  顔を上げ、額飾りを身に着けると、ラーネフェルは、閣議の間に続く階段をゆっくりと上り始めた。  その奥に控えているであろう、父を除く残りの大臣たちと、七十日後の葬儀の打ち合わせをするために。
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