◎天羊の章(6) 騒乱

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◎天羊の章(6) 騒乱

 その日の午後遅く、ネフェルウは、レニセネブに案内されてアンクゥの屋敷へやってきた。私物などほとんど持っていなかったから、普段着など、こまごましたものを入れた小さな櫃を自分で抱えての引っ越しだった。輿入れのためにと、養父が買い揃えていた品も、将来の王妃のためにと整えられた高価な装身具や衣装も、全て、離宮に置いて来た。持ってきたのは、神殿で働いていた頃の神官服や、その頃に自分で揃えた身の回りの品くらいだ。  「さ、足元に注意して」 レニセネブが少女の手を取り、玄関の段差を越えさせる。  「ここ、前にも来たことがあるわ」  「そうですね。あの時、あなたは客間でラーネフェルを待っていた」 その客間で今日は、家の主人アンクゥと、その妻セネブティが笑顔で出迎えてくれている。  「ようこそ、我が家へ。ここなら、のんびり過ごせるだろう。自分の家と思つてくれていいんだよ」  「さあ、こっちへ来て座って。荷物はお部屋に運ばせておきますからね」  「ありがとうございます」 ネフェルウは、しばらくここで暮らすつもりだった。結局、王との婚姻は結ばれておらず、大神殿に戻ることも出来ず、彼女の身分は宙に浮いたままだ。そして王宮に居続ける理由はもとより無く、逆に、一刻も早く逃げ出したかったのだ。  見張りもなく、誰にも何も言われずに出てくることが出来たのは、王の死のどさくさと、宰相や大神官から彼女への興味が薄れたことによるのだろう。  玄関に入っていくと、召使いのお仕着せを身に着けた少年が素早く近づいてきて、彼女の手にしていた荷物を受け取った。  その顔を見たネフェルウは、あら、とうれしそうな顔になる。  「あなた、ここで雇ってもらえたの?」 それは、あの時の少年、ミウだった。照れたような顔をしながら、少年は無言に頷いて、荷物を手に奥へ去ってゆく。まだまだ礼儀作法などは見習いといった感じだが、ちゃんとしたものを着て、食べて、まっとうに暮らせているようだった。  客人を迎えて、屋敷は一気に華やいだような雰囲気があった。都じゅうが喪に包まれている時期ではあったが、食卓には、丸ごと焼いた鶉や魚の煮物など、立派な料理が並んでいる。  「さあどうぞ、召し上がれ」  「わあ」 初めて目の当たりにする家庭料理――神殿の質素な食事でも、王宮のむやみと豪華な料理のどちらでもないもの――に、ネフェルウは興味津々だ。早速、豆の煮込みに手を伸ばす。  「いかがかしら」  「とってもおいしいです、それに…あの」 頬を染めて、ネフェルウはちょっと俯いた。  「こういうの、久しぶりだから…。みんなで食卓を囲むのって。」 レニセネブと、両親が笑う。こうして誰かと話をしながら、顔をつきあわせて食卓を囲むのは、神殿に暮らしていたときいらいだ。  あの頃は仲間の神官たちやワティと、他愛無い話をしながら食事をした。  輿入れの話が出てからの王宮での食事は、ほとんどが一人で、たまに会食があっても難しい顔をした大臣たちに取り囲まれて、ちっとも楽しいとは思わなかった。  「喪が明けたら、一緒に買い物に行きましょう。お料理も教えてあげるわ」  「本当ですか? 楽しみ!」 セネブティと楽しそうに会話している少女の横顔を、レニセネブは時折手を止めて、ちらりちらりと伺っていた。それは、彼女の様子を気遣ってというよりは、何か、彼個人に思うところのある行為のように思われた。  食事が済み、ネフェルウが自分のために整えられた部屋に引き下がったあと、家族三人はその場に残っていた。アンクゥは食後の酒をちびちびと舐めている。  「良い子ね、それに、ラーネフェルによく似てる」 最初に口を開いたのは、セネブティだった。  「私はあの子から、たった一人の家族をずっと取り上げていたことになるのね…」  「今さら言っても仕方あるまい。」 アンクゥが言い、セネブティは小さく俯いた。レニセネブは、困ったような顔で杯を置く。  「二人とも暗いですよ。誰も責めていないんです、もっと明るい顔をしてください」  「ラーネフェルは、どうしてるの?」  「王宮ですよ。葬儀の準備と即位式のこともありますから。どこかの大臣がさっさと引退してしまったお陰で、人手が足りないんです。私もこのあと、王宮へ戻ります。」 王位の委譲ともなれば、毎年行われる大神殿の祭り以上に手続きが複雑で、気配りの必要な祭儀となる。神々への報告、民衆へのお披露目。各領地への伝達や、「王」を僭称する他勢力に対するけん制。その準備期間は、死せる王の葬儀を含めても七十日しかないのだ。  「無理はしないでね、あなたも。」 母の抱擁を受け、食事を終えたレニセネブは、玄関に立った。  「彼女をよろしく頼みます。」 日はもう落ちている。  微かな青みを帯びた空に一番星の輝く下、明かりを手にした召使い先導させて王宮のほうへ歩き出すレニセネブの姿を、ネフェルウは、開いた窓際に頬をついて、眺めていた。  通りに面した窓からの景色は、どんなに見ていても見飽きることがなかった。王宮の中にいた頃は、通りの見える窓にさえ近づけなかったのだ。  西へ暮れてゆく太陽の残した赤い帯、静かに冷えてゆく夜空の色。家路を急ぐ人々の流れが途絶えると、やがて、辺りには”夜”が始まる。  こんなふうに、間近で人々の暮らしを見ることなど、今までなかった。神殿の夜は早く、夕餉がすんだら夜晩を残してみな寝静まってしまう。その代わりに朝が早いのだ。毎朝、日の出とともに置きだして、神殿内を清めて回る。毎日、同じ生活の繰り返し。変化などほとんどなく、生活も塀のうちで完結していた。王宮での暮らしも似たようなもので、掃除などの仕事が無かったぶん、よけいに閉塞感を感じていた。  彼女にとっては、外の世界で、本当の意味での自由な夜を過ごすのは、これが初めてなのだった。夜更かしして起きていても、誰にも叱られない。誰かに見張られていることもない。出て行こうと思えばいつでも出ていけるし、また、この部屋に戻って来ることも出来る。  酔っ払って大声で歌いながら通り過ぎる男も、食べ物を探して通りを嗅ぎまわる野良猫も、暗がりに沈む道をとぼとぼと足をひきずりながら家路につく貧しい女も、今までは、その存在さえ知らなかったものたちだ。  「ねえイアーレト。世界って広いのね」  『そりゃあそうですよ』 少女の腕を離れた蛇が、するすると窓枠を伝ってゆく。  『街の外にもまだ街があります。国境を越えれば、この国以外の国もある』  「私、何も知らなかったわ」 頬杖をついたまま、少女は、名残惜しそうに西の空にわだかまる、昼の最後の輝きを見つめている。  「…だけどこれで、またしばらく、お兄さんに会えなくなっちゃうのね」 ラーネフェルは、しばらく王宮から戻ってこられないのだという。あるいはこのまま、王宮に留まり続けることになるかもしれない。即位の式が終われば、家族であっても気軽に会いに行くことは出来なくなってしまう。  「あーあ、結局、お兄さんとは一緒に暮らせないのね。残念だわ…」 窓枠にあごを乗せてぼやいていると、頭上から、蛇の声が降ってくる。  『お姫様、お姫様。はしたないですよ』  「いいじゃない、ずっと王宮にいて疲れちゃったのよ。あそこは嫌い。ここは、なんだかとっても居心地が良いの」  『私もそうでしたよ』 見上げると、ちょうど真上にぶら下がるようにして蛇の頭があった。  『あそこは嫌な気配が山ほど漂っていましたね。あんなところで暮らしていたら病気にもなりますよ。』  「…お兄さんは、大丈夫かしら」 呟いてから、ふと、思い出す。  「そうだ。お兄さんの連れてた灰色の犬の神様…。具合が悪いって。どこにいるのかしら」  『気配は感じますね』  「案内して」 窓を閉めようと伸ばした腕に、蛇がするすると絡み付いてくる。部屋の中はもう薄暗くなっている。廊下に出ると、ちょうど、明かりを手にした召使いが廊下に明かりを灯し終えて去ってゆくところだった。  『その先を曲がったところですね』 蛇に言われ、ネフェルウは、小間使いに見つからないよう足音を忍ばせて廊下を渡った。そっと部屋の扉を押し開くと、真っ暗な中に寝台と小さな(ひつ)だけが見えた。滑り込み、後ろ手に扉を閉める。  「ここが、お兄さんの部屋…?」 質素で、目を引くようなものは何もない。最初に見えた家具以外は、戸棚と椅子、小さな卓くらい。寝台の上には、綺麗に畳まれた敷き布が、部屋の持ち主がいつ戻ってきてもいいようにと置かれたままになっている。――犬は、一体どこだろう。  見回すと、寝台の脇の影になっている隅に、丸まっている灰色の塊が見えた。近づいてみると、確かに犬のようだったが、体は半分透き通って消えかけている。  「まあ大変」 触れると、かすかなぬくもりを感じた。まだ生きている。だが、深い眠りについているらしく、揺すってみても目覚める気配がない。ネフェルウは、肩先の蛇を見た。  『…ふむ。信じたくはないのですが、…どうやら本当に、呪詛を食らっているようですね。』  「それって、前に言っていた神官しか出来ないっていう?」  『ええ、ですが、どうやって――ふうむむ』 体をくねらせ、考え込んでいるようだ。  「何とかして頂戴。この犬は、私とお兄さんの守り神なんだから」  『無茶を言わないでください。私はこういうものは苦手で…。ああそうだ、あれがありましたね』  「あれ?」  『祠堂です。大神殿の奥に、この山犬がかつて住んでいた古い祠堂が在ったでしょう』 ネフェルウは、小さく頷いた。幼い頃にラーネフェルと遊んだ、思い出の祠堂のことだ。  『あそこに行ってみれば、何かあるかもしれませんよ』  「わかったわ。明日にでも行ってみる。お参りだって言えば、きっと――」  その時だ。ネフェルウの耳に、かすかに人の叫び声のようなものが届いた。蛇が体をくねらせる。  『…なにやら、外が騒がしいですね』 自分の部屋に戻り、窓を開くと、さっき見ていた通りに慌しく駆け出してくる人々が見えた。城の衛兵たちが、上等の服を纏った、貴族らしき人々を追い立てている。家族だろうか、女性も、幼い子供もいる。  「わ、我々は何も知らされていなかった!」  「まさか、こんな大それたことをしようなどと――」   「あの方には何も…従ってはいない――」 夜風に乗って言葉は途切れ途切れだが、何か、尋常ではないことが起きたのは確かなようだった。  街のどこかで、赤ん坊が火のついたように泣き叫んでいる。暮れてゆく日の最後の残り火の中で、衛兵たちの持つ槍が鈍く煌く。  「反乱だって?」  「しっ。声が大きいよ」 ネフェルウが覗いていることに気づかず、窓のすぐ下で、街の住人たちがひそひそと話している。  「将兵たちが、兵を率いて川向こうの谷に立てこもったって」  「ええ? 何でまたそんなところに――」   「砦があるじゃないかね、大昔の。だからだろう」  「何でそんなことを…」 反乱。それはつまり、ラーネフェルに対して起こした、ということだ。  ネフェルウは、胸の辺りを押さえた。心臓がはやがねのように鼓動を打っている。どういうことなのだろう。一体どうして。  階段を駆け下りて広間へ向かうと、ちょうど玄関で、アンクゥが上着を羽織ながら衛兵を応対しているところだった。側には、心配そうな顔のセネブティが立っている。   「様子を聞いてくるだけだ、すぐ戻る。わしはもう引退した身だからな」  「でも――」  「王宮へ行かれるんですか?」 ネフェルウが声をかけると、アンクゥは振り返って彼女を見た。   「ここにいなさい。家の周りには警護がつく。何も起こらないだろうがな。」  「あなた…」  「行ってくるよ」 扉が閉まり、足音が去ってゆく。玄関前には左右に槍をたずさえた衛兵が直立不動で立っている。裏口にも、おそらく見えない屋敷の裏手にも、見張りがいるのだろう。セネブティは、少女に近づいて両手でその体を抱きしめた。  「こんなことになってしまうなんて…」 体を通して、不安に震えているのが分かる。ネフェルウは、年かさの婦人をそっと抱きしめ返した。  「心配いりませんよ、お母様。お兄さんたちが、きっと何とか治めてくれます。」 言いながらも、ネフェルウ自身も不安は消えなかった。守護神であるセドが力を失い、消えかかっているこんな時に、事件が起こるなんて。  都への襲撃、王の死、そして反乱――。一体何が起こっているのだろう。  そのころラーネフェルは、閣議の間で反乱の知らせを受けとっていた。駆け込んできた伝令がそれを告げると、居並ぶ大臣たちがざわめき、ラーネェルの少し後に新たに任命された、三人の若い将軍たちの仕業だと知るなり、口々に呪詛を吐きながら頭を抱える。   「反乱だと、あの馬鹿どもめが…」  「これだから、気位だけ高い若造どもに兵を与えるのは嫌だったのだ」  「どおりで今日は姿を見せなかったわけだ。どこをほっつき歩いているのかと思ったが、怠け者どもが…」 一人、レニセネブだけは落ち着いている。  「まだ、次期王からの勅令は回っていないのだろう?」 伝令が頷くと、彼は顎に手をやった。  「では、先回りということか。――早いな、ずいぶん手際がよい」  「街にいる、彼らの家族を抑えろ」 ラーネフェルは立ち上がって衛兵たちに指示を出し、縁台の外の町を睨んだ。首謀者の三人の将軍たちと顔をあわせたのは、これまでに一度か、二度か。自ら剣を持ったこともなさそうな、温室育ちの貴族たちに見えた。ろくに軍事知識もなく、国境の認識さえも怪しいような連中だった。任命された理由は、もっぱら家柄が理由だろうと、レニセネブが言っていた。もしくは、王が任じたラーネフェルに対抗しての、宰相の権力の誇示のためだろうとも。  「どうなさいますか」 大臣の一人が問う。  「反乱は鎮めねばならない。こちらも兵を支度しよう。それと俺が出る」  「御自ら征伐に向かわれる、と…?」   「他に誰がいる? 将軍が反逆したのなら、将軍で対抗しなければならない。そして、セネブカイ将軍を呼び戻す時間はない。」 大臣たちが不安げに顔を見合わせる。  「兵の使い方も知らない名ばかりの将軍が集まったところで、何も出来はしない。――財務官殿、出兵の準備に付き合ってもらえないか。武器の在庫を知りたい」 声をかけられたレニセネブが、頷いて席を立つ  「すぐに戻る」 言い残して、ラーネフェルは部屋を出た。二重扉の向こうでは、今頃、残された大臣たちが喧々諤々、身にもならない怒りの言葉を吐き散らしていることだろう。だが言葉で文句を言うだけなら、誰にだって出来る。それでは現状は変えられないのだ。  「どう思う。彼らのことを」 武器庫に向かって足早に回廊を歩きながら、ラーネフェルは問うた。  「反乱を起こす理由か? 大方、アンクゥ大臣の息のかかった王候補が嫌だってところだろう。知ってたか? 三人の将軍のうち一人は、さっきあの場にいた大臣の娘婿さ。おかげで一人だけ青い顔をして黙ってたよ」  「本当か。」   「今頃は、中で絞め殺されているかもしれないね」 意地悪く小さく笑ってから、レニセネブは真面目な顔に戻った。   「それより私は、三将軍が誰を担ぐつもりなのかが気になってるよ」  「というと?」  「貴族というものは、自分たちの得にならなきゃ動かないものさ。お前が王になったら、実戦経験のない将軍なんかクビにしてしまうつもりだったろう」 ラーネフェルが頷くと、レニセネブは続けた。  「つまりクビにされるのが嫌でこんなことをしてるってことだ。その点では、今回の反乱は茶番だろうな。脅しをかけて、自分たちの地位を保証させたいのさ。そんな彼らを将軍職に、つまり権力の地位に置いたままにしてくれそうな相手は誰だろうね?」  「――将軍への任命は、王が行った」  「そうだ。そしてそのとき、実質の采配をとっていたのは、誰だ?」 ラーネフェルにも次第に、レニセネブの言いたいことが分かってきた。王に代わり、実際に国政を動かしてきた者――この場にいない、ただ一人の重臣――、宰相、インオテフ。  「宰相殿は今、どこに」  「分からない。王の遺体に付き添っていたのは覚えている。てっきり、祭儀の場に残っているものかと」  「…嫌な予感がするな」 レニセネブは、考え込むようにあごに指をやった。  「お前の存在は、宰相にとっては誤算だったのかもしれない。御しやすい王でも王妃になりそこねた姫君でもなく、お前に上に立たれたら、今までどおりにはいかないからな」   「まるで、宰相がけしかけて三将軍にやらせているような言い方だ」  「かもしれない、と言っている」 足を止め、ラーネフェルは兄を振り返った。   「…長くても、丸一日だろう。その間のことを頼む」  「ああ。」 視線が交わった。  互いの心情は、手に取るように伝わって来る。  二人は無言に、その場で別れた。レニセネブは、出兵の準備に必要な備蓄を確かめるために。ラーネフェルは、大臣たちとの会議を続けるために。
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