◆黒犬の章(4) 大臣の館

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◆黒犬の章(4) 大臣の館

 大臣アンクゥの館は、幅広の王宮前通りに面した貴族街の一角にある。漆喰を塗った家々の真っ白な続く街並みは、さっきまで歩いていた貧民街の薄暗さとは大違いだ。  貴族街が出来たのは、ここが首都と定められるよりも前のことだった。いずれイティ・タァウィの都が放棄されることを見越した貴族や高官たちが、先手を打って上流の、かつての都に邸宅を築いたのだ。――その頃には、遷都を決めるのは王ではなく、王は実際には、既に宰相や大臣たちの決めたことを「追認」するためだけに必要とされる存在となっていた。  広い通りの垂直に交わる整然とした通りを抜けて、ラーネフェルは我が家の通用門の前に立った。召使いたちは無言に礼をして道を開ける。彼が正面玄関から帰宅しないのは、いつものことだ。正面から部屋へ向かおうとすると、庭園に面した居間と、吹き抜けの中庭を通り抜けなくてはならないから、母と出くわす可能性が高くなるのだった。  この時間なら父や兄も仕事から戻ってきているはずだ。そちらに気を取られていてくれればいいのだが。  そう思いながらラーネフェルは、召使いたちの忙しく働く台所を通り抜けて、素早く館の中に滑り込んだ。  『何を、そんなに緊張している?』 足元の黒犬が訊ねる。  「要件の無い時は、母上に会いたくない。何かと勘ぐって来るのが面倒だ」 ひんやりとした風の渡る廊下には、人の気配はない。ほっとして、彼は少し肩の力を抜いた。部屋は廊下の突き当たりの階段を上がった先だ。自室に籠ってしまえば、あとはもう、干渉される心配はしなくていい。  塵一つなく掃き清められたタイル張りの廊下は、居間のほうから聞こえてくる父の大きな声が響いていた。小柄な体とは裏腹に、良く通る威厳に満ちた声をしている。小さな声で相槌を打っているのは兄だろうか。仕事を終えたあと、いつものように宮勤めの愚痴を話し合っているのだろう。  その声を聞き流しながら階段を駆け上がり、もう大丈夫だと胸を撫で下ろした、次の瞬間。  「ラーネフェル!」 背後から追いかけてくる鋭い呼び声に、思わず杖を取り落としそうになった。振り返ると、服の裾をたくし上げて追ってくる者がいる。母のセネブティだ。  「…母上」  「やっぱり、あなた! コソコソして、一体どこに行ってたの。」 どうしてこう、母親の勘というのは鋭いのだろう。完璧に気配は消していたはずなのに。  耳につけた飾りをシャラシャラと揺らしながら小走りに駆け寄ると、彼女は、目ざとく息子の服の袖口に残った僅かなほつれを見つけ出していた。  「服を汚したわね。――この、泥。あなた、また街の外へ出ていたでしょう」  「母上には関係ない」 彼は、微かに胸の痛みを覚えながらも、やや乱暴にセネブティの延ばしてくる腕を払い退けた。  「俺はもう子供じゃない。いちいち行き先に干渉されたくありません」  「普通のお出かけならいいわ。でも貧民街はだめよ。あそこは強盗やならず者の巣窟じゃない、危険だと何度も言ったでしょう。あなたときたら、そんなところへ行って喧嘩ばかり――」  「騒がないでください、声が大きい。」  「ラーネフェル、私は貴方のためを思って――」  「着替えてきます。ご心配なく、母上に迷惑はかけませんよ」 逃げるように部屋に滑り込んで戸を閉めると、自然に大きなため息が漏れた。背中越しに、まだ廊下でうろうろしている女の気配を感じる。心配してくれているのは分かっている。けれど、その愛情は半ば脅迫じみていて、彼にとっては絡みつく網のようなものだった。  どこからともなく、クックッという小さな笑い声が聞こえた。  『随分と苦労しているようだな、母親には』 その時になって彼は、忘れていた黒犬の存在を思い出したのだった。見回すと、犬はいつのまにか寝台の脇まで移動していた。ひくひくと鼻を動かしながら、部屋の空気を嗅いでいる。  「そういえば、母上はお前については何も言わなかったな」  『ああ。見えないのだ、普通の人間には。』 とん、と床を蹴り、ベッドの端に飛び上がる。  「俺が普通じゃないとでも? 神官でもないのに?」  『さて。波長が合うのかもしれん。あるいは何か、私の役目に関わる特別な意味があるのかも。』  「俺のことは生まれたときから知っていると言っていたじゃないか。俺の名前もだ。」  『そうだ。”知っている”。だが、今はほとんど思い出せない』  「――何だって?」 汚れた衣を脱ぎ捨て、着替えを取り出そうと(ひつ)を探っていたラーネフェルは、思わず手を止めた。  『言っただろう。私は名を失って久しいのだ。我々、人の守護者なる存在(もの)にとって、名とは存在理由のことだ。それは人間にとっての”記憶”と同じものなのだ。お前に出会ったとき、お前の名だけは思い出した。それをずっと昔から”知っている”ということもな。今持っている記憶は、それだけなのだ』  「つまり、お前の記憶を取り戻さないと、俺は知りたいことは教えてもらえないと」  『そういうことだ。公平な取引だろう?』  「…ああ、そうとも言えるがな」 指先に、真新しい布が触れた。彼はそれを引っ張り出し、汚れが無いことを確かめたあと、体に巻きつけた。白い布の上に金色の胸飾りが跳ね、引き締まった上半身が一瞬、露わになる。黒犬の金の瞳がそれを鋭く見止めたが、すぐに何事もなかったように逸らされた。  「で? お前はいつから、あの辺をさまよっていたんだ」 裾を直しながら、ラーネフェルは寝台の向かいの椅子に腰を下ろした。  『人の世でいう時間は分からぬが、太陽の舟の過ぎ去るのを、五千回以上は見ただろう』  「五千回――十年以上前か。まだ、イティ・タァウィに都があった頃だな。そんなに長いこと宿無しでうろついて、よく沙漠の悪霊どもに混じってしまわなかったな」  『私にはまだ終えていない契約があったのだ』  「でもそれが何なのかは覚えていない、と」  『そうだ』 表情のない黒犬の顔を見つめていると、部屋の片隅にある暗闇に向かって独り言を言っているような奇妙な感覚に囚われてくる。これは夢ではないのか。自分にしか見えないという犬の姿、はたから見れば壁に向かって話しかけている頭のおかしい男だ。こんな姿は誰かに見られるわけにはいかない。  ラーネフェルは部屋の戸に近づいて、そっと隙間から廊下を伺った。母の気配は、もう消えている。誰かに聞かれる心配は無さそうだ。  振り返って、彼は続けた。  「契約というのは、何だ? 人間の祈り? 請願? そもそも、名と記憶が結びつくというのは、どういうことなんだ」  『そうだな――たとえば、だ』 黒犬は、ちょっと片方の耳を傾けた。  『ある町に、守護神がいたとする――名は何でもいい、その町の名が、その守護神の名でもある。町を守ることがその神の役目であり、存在意義だ。神は町で生まれたすべての人間たちのことを記憶している。だが、町が失われるとその神は名と役割を失い、消えてしまう。分かるだろう』  「ああ」  『だが、その町の住人はまだ生きていて、かつての町の守護神のことも覚えているとする。神の契約はまだ終わっていないのだ。その町で生まれた、記憶する最後の住人が死ぬときまで、役割を終えて消え去ることは出来ないのだ。』  「なるほど、見えてきたぞ。お前は、街か村か、もう無くなってしまった集落の神で、俺はそこの出身なんだな。それで俺のところに出てきたんだろう」  『そうかもしれないし、そうではないかもしれない。今の私には答えるすべはない』  「簡単さ。そうと分かれば調べはつく。黒犬の神なら冥界神だろう? どうせ西岸に決まっている」 都の西、日の沈む方角へ川を渡った先の谷間には、死者を祀るための墓所が作られている。都が今の場所へ移り、住民が増えたことで墓所が拡張されて、その周辺の村からは多くの人間が移住させられた。墓の近くに集落があると、墓荒らしの危険が常に付きまとう。そしてまた、貴人の墓の場所が、具体的に判ってしまうという危険もあった。今もそこに住んでいるのは、死者を弔うための儀式を請負い、道具をつくり、墓穴を美しく装飾するための職人たちだけだ。  「明日にでも調べてやるさ。すぐに見つかるだろうよ」  『……。』 犬は、何も言わずに前足の上に頭を乗せてうずくまった。日は落ちようとしている。部屋の中にも闇が押し寄せて、漆黒の犬の姿はその中に溶け込んでほとんど見えない。  戸が叩かれ、召使の、夕餉(ゆうげ)の支度が整ったと呼ぶ声がした。ラーネフェルはすぐに行くと返事をして、ついていく気は無さそうな黒犬のほうをちらと見やった。どうせ連れていっても姿は誰にも見えないし、一緒に食事をするわけでもない。いや、そもそも、この犬はどうやって生きていられるのだろうか。もしもこれが「神」の一部なのだとしたら?  「帰りに何か貰ってくる。お前はここで待っていろ」 それだけ言い残して、彼は部屋を出た。
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