◎天羊の章(8) 決着

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◎天羊の章(8) 決着

 目の前に迫った黒光りする武器を前にした時、ラーネフェルはしまったと思った。避けきれない…、それはあまりにも突然で、しかも、味方のふりをして直ぐ側に紛れ込んでいた。  だが、切っ先が胸に付き立てられようとしたその瞬間、何かが、彼を突き飛ばすようにして割って入った。肌に触れた短い毛の感触、唸り声と、懐かしい後姿。  「――お前」  『ふむ、どうやら間に合ったようだな』 耳と尾をぴんと立てた灰色の犬が、振り返って口を開く。  『戦場とあらば、私が必要だろう?』 頷いて、ラーネフェルは間髪いれず襲ってきた兵士を組み敷いた。そして兜を剥ぐと、後ろ手にひねりあげながら頭を摑んだ。  「こいつは今、俺を襲ってきた! 誰か、こいつを見知っている者はいないか」 周囲の兵士たちが顔を見合わせ、一人が、あっと声を上げる。  「そいつ、宰相様んとこの使用人じゃねえか?」  「ああそうだ、どっかで見たと…インオテフ様んとこの」  「あーいつも後ろにくっついてた護衛」  「…ほう」 ラーネフェルは、諦めたようにふてぶてしくそっぽを向いている男を見下ろした。  「やはり、黒幕は宰相殿か。あの三人を炊き付けたのも」  「……。」  『狙いはネフェルウだ』 足元に寄り添う犬が言う。  『あの娘の養父の神官が、私の祠堂を汚したのだ。奴らは共謀者だ。ここでお前を亡き者にして、手ごろな駒をネフェルウの夫として、王位を与えるつもりだったのだろう』  「成る程。」 あの宰相は、ラーネフェルが自ら兵を率いてここへやって来ることを読んだ上で、罠をかけておいたのだ。そうして首尾よく暗殺が成功した暁には、あの崖の上にいる、哀れな三将軍たちを首謀者に仕立て上げ、口封じをするつもりだったのだろう。  「撤退するぞ」  「えっ」 兵たちがざわめく。  「しかし――」  「あれは捨て置いて構わない。これより都へ帰還し、真の首謀者である宰相インオテフを捕縛する。急げ!」 言いながら、ラーネフェルは自ら先陣を切って川べりの舟に向かって走り出していた。日は既に高く昇り、川面はきらきらと光を反射している。畑仕事のために出てきた近隣の村人たちは、畦道を走る大勢の兵たちに驚いて、木陰や道端で目を大きく見開いたまま彫像のように固まっている。  先頭を走るラーネフェルの帯は、旗印のように金色に光を反射する。同じように武装しているというのに、続く兵士たちは誰一人、追いつけない。  「まるで、戦の神だ…」 誰かがぽつりと呟いた。先頭をゆくその背は道を切り拓くもの、残る者たちはただ追うのみ。  都は騒然としていた。  何かが起きたことは、すぐに分かった。ラーネフェルのもとにもたらされた報告は予想していた通りのもので、兵を率いて川を渡ったすぐ後に、宰相の私兵団がアンクゥの屋敷を襲撃したという。家族は抵抗し、少女が一人逃げ出すのが目撃されていた。向かった先は分からないが、大神殿のあたりで揉め事があったらしいと噂が流れている。  どこを探せばよいのか、ラーネフェルにはもう分かっていた。  宰相の私邸を押さえ、町の出入り口を固めるよう衛兵たちに指示を出し、彼自身は最小限の兵だけを連れて先を急いだ。向かう先は王宮だ。――インオテフが立てこもるとしたら、そこしか考えられない。  王宮の入り口を固めていた宰相の私兵たちは、すぐに片付いた。  閣議の間に閉じ込められていたほかの大臣たちや、追い出されていた使用人たちを解放して話を聞くと、宰相は少し前、ネフェルウと護衛を引き連れて謁見の間のほうへ向かったという。奥座へ続く薄い幕を払うと、こんなときだというのに、高価な香の香りがした。  インオテフは、玉座の前に立っていた。  「ほう、生還したか」 ラーネフェルが入ってくるのを見ると、そう言ってうっすらと笑みを浮かべ、傍らの少女を引き寄せた。見たところ、ネフェルウは傷一つ負ってはいない。ただ、後ろ手に縛られて、白い首元に短剣を押し当てられている。  「人質、とはまた趣のないことを」  「何とでも言うがいい。あの三人は? 殺したかね?」  「いいや」  「――生かしたのか。何とも無駄なことを」 ばたばたと足音が響いて、乱暴に幕を押しやりながらさらに数人が謁見の間に押し入ってくる。一人はアンクゥだ。  「ああ、無事だったのだなラーネフェル。大神官はこちらで捕らえたぞ、神殿内を血で穢した罪で――」 言いかけて、ラーネフェルの視線の先、相対するように立つ宰相に気づいて言葉を切った。  「インオテフ、貴様…」 長身の宰相は、小柄な元大臣を見下ろすようにして笑った。  「アンクゥよ、よくよく貴様は運が良い。ただ、欲を出さず大人しくしていればよかったものを」  「欲だと?」  「おのが甥を王位につけるだけで満足しているべきだったのだ。もう一人の遺児を保険として飼っておこうなどと思わずに。」 わずかな沈黙、意味を理解し、脳に染みとおるにつれ、アンクゥの表情が変わってゆく。  「――知っていたのか…ずっと?」 インオテフは、高らかに笑い声を上げた。  「本気で誤魔化せるとでも思っていたのか? 貴様の息子と、皇太子の子を取り違えるほど愚かだと? 遺体のすり替えには、すぐに気づいたとも。だがな、そのお陰で、お前はお前の家庭を守れたのだろう。貴様の息子が牡牛を殺しに飛び出してくるまでは、我々もまた、利害の一致する共犯者だったのだ。――あんな余計なことをするまでは!」 見る間にアンクゥの顔が真っ赤になる。  「知っていて、黙っていたというのか。都合のいい王たちに寄生して、甘い汁を吸うために? お前は…お前という男は!」  「何を喚く? 貴様とて、甥を王位につけて好き放題していたではないか。我らは同じ、王権に寄生する汚い権力の亡者よ。」 凍てつくような視線が、ラーネフェルに向けられる。  「貴様がクシュの地で野たれ死んでいてくれれば、こんなことにはならなかったのだ。麗しの王はもっと長生きし、無事妻を娶り、子を残してから死ねただろう」 宰相の腕の中で、ネフェルウが身じろぎした。  「どういう意味? まさか――」  「黙っていろ、お姫様。女は黙って目と耳を閉ざし、勝利の褒章として誰かに与えられるのを待っていればよい」 ラーネフェルの目に、ネフェルウの額の上で聖蛇が大きく口を開いて威嚇しているのが見えた。だが彼女の牙は宙を素通りし、インオテフには噛み付けないでいる。足元で、灰色の犬がフンと鼻を鳴らす。  『悪霊や呪詛ならいざ知らず、通常時は、生身の人間に神が直接、仇なすことは許されていないのだ。気に食わんがな』  「……。」 ならばやはり、ラーネフェルが人間の力をもって取り戻すしかない。だが、どうすれば彼女を傷つけずに近づける?  アンクゥは、一歩進みだして両の腕を大きく広げる。  「どうするつもりだ、インオテフ? この通り、ラーネフェルは生きている。貴様のはかりごともこれまでだ。その娘を妻として自らが王になるつもりか? まさか、この期に及んでそんなことが出来るとでも?」  「私を裁けると思っているのかね」 逃げ道は完全に経たれているはずなのに、インオテフの表情にはいささかの焦りの色も見られない。  「何のために、王家に忠誠を誓ったアメニエムハトを国境へ追いやったと思う。何故、我が息子が将軍なのかを? 厄介だったのは軍を束ねられる者の存在だった。それさえなければ、いかな兵とて烏合の衆よ。私の兵がこれだけだと思うのか。さあ、そこを退きたまえ。間もなくセネブカイが軍を率いて戻って来る。この娘は、王妃として我が倅に与えられる大事な品だ。私とて傷つけたくはないのでね」  「貴様…」 ネフェルウの首に短剣を突きつけたまま、インオテフは一歩、また一歩と出口へ向かって歩みだす。ほんの少しでも刺激すれば、切っ先は肉に食い込みそうに見えた。堂々たる長身の宰相に隙は見えず、ラーネフェルも道を開けるしかない。金の聖蛇は、ネフェルウの額で怒り狂っている。  『ええい、腹立たしい! この男! 手を退けなさい!』 セドが足元で唸る。  『ラーネフェル、時機を伺え。あの煩い蛇がついている。後からでも、場所は追いかけられる』  「…くっ」 ラーネフェルは唇を噛む。確かに、今ここで戦えば、ネフェルウは確実に巻き込まれてしまう。それに、街の人々も。インオテフの口ぶりからして、将軍セネブカイの配下だった兵たちは、おそらく全て敵に回ったのだ。他にインオテフは、一体どれほどの兵を隠しているだろう。このままでは――都を守り切れるかどうか…。  ――と、その時だった。  目の前に、ざっ、と黒い影が降りた。  どこに隠れていたのか、それは天井の梁のあたりから降りてきたように思えた。誰も頭上になど気を遣っていなかった。体にまとわりつく黒い衣の裾を払いながら、その影は滑るように宰相の背後に近づくなり、一太刀のもとに、背から宰相の胸を貫いた。  「うっ…?」 一声呻いて、男の体が前のめりになった。腕が緩み、隙を突いてネフェルウが囚われた腕の中を抜け出して、兄のもとを目指して走り出す。  「ネフェルウ!」 飛び込んでくる少女の体を両腕で抱きとめながら、ラーネフェルは、床に屑折れてゆくインオテフの体と、その背後に立っている、血に濡れた剣を手にした男の姿を見ていた。  男は黒っぽい仮面をつけている――牛だ。  黒と白の斑の、牡牛の仮面。  仮面の男は、ラーネフェルのほうを見て、にいっ、と白い歯を見せて笑った。  (まさか…) あっけにとられて声も出ない人々の前で、男は擦り切れた外套を翻し、廊下へと駆け出してゆく。一瞬遅れ、我に返った衛兵たちが口々に叫びながら、わっと後を追っていった。  ラーネフェルの視線は、床の上に長々と伸びたインオテフの体の上にあった。  「う、…うう…ふぅ…」 もう助からぬ傷のはずなのに、男は、床にうつぶせたまま笑っていた。   「…だが…もう遅い…。我が息子は、既に…」 それだけ呟いて、最後の息は途切れた。  もはや、インオテフの体はぴくりとも動かない。長らく権力の座にあった 男はいま、息絶えたのだ。  床には音もなく、赤い染みが広がりつつあった。
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