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+終章 それぞれの路(みち)の果て (1)
すべてが終結したのは、それから半日以上経った後のことだった。
インオテフの謀反の企てが明らかにされるとともに、川向こうの砦に立てこもっていた三将軍たちは投降した。王宮内にあったインオテフの屋敷には手勢はほとんど残っておらず、もぬけの空の状態になっていた。
矢傷を受けた大臣イウフェニは手当てを受け、命に別状はない。
屋敷が襲撃されたときに傷を負ったレニセネブも、傷自体は大したことはないという。
時折駆け込んでくる大臣や将校たちからそうした報告を受けながら、ラーネフェルは、閣議の間の窓から夜に沈みゆく街を眺めていた。傍らにはアンクゥが、背を丸めて柱にもたれかかっている。
「…結局、わしはインオテフの手のひらで踊らされていただけだったのだな」
呟いたアンクゥは、やけに小さく見えた。
「悪役になりきれなかった、ということでしょう。良いことじゃないんですか」
「喜んでいいのやら」
アンクゥは、力なく笑って、手を、白髪交じりの頭にやった。
「――今さらの話なのだがな…お前を将軍につけると言い出したのは、亡き王なのだ。初めてだったかもしれん、自分の意見で、インオテフに逆らって何かを成したのは」
振り返って首を傾げたラーネフェルに、アンクゥは続けた。
「わしが、お前をクシュから呼び戻してほしいと懇願した時、インオテフは頑として認めなかった。王になりかわって聖牛を殺した不敬の罪は重いと言い張ってな。今となっては、それもお前を遠ざけるための口実だったのだと分かっているのだが。――インオテフを押し切ってお前の帰還を決めてくれたのは、その、王なのだ。陛下は、わしの甥は言っていた。お前にまた会いたいのだと。…不思議と身近な感じがする、と。」
「……。」
最後に見た、青白い口元に笑みを浮かべた青年の顔が脳裏を過ぎる。細い腕、冷たい体。家族も友もなく、「王」という使命だけを背負って孤独に生きてきた青年は、どこかで、自分と通じ合える王の器を求めていたのかもしれなかった。
「わしは、あの方にも謝らねばならん。」
「そうかもしれません。今からでも遅くはありませんよ、いつか、”あちら”で会ったときに伝えてください」
死者の集う冥府の楽園、冥界神の総べる来世。だがそこにたどり着くためには、生前の正しい行いが必要だ。罪を犯した者は、それを償ってから旅立たねばならない。
困ったように微笑み、アンクゥは、自分の額を撫でた。
「無茶を言ってくれる。わしにそれほどの時間が残っているかどうか。」
柱から体を起こし、ゆっくりと扉に近づいてゆく男の背に向かって、ラーネフェルは声をかける。
「宰相がいなくなって人手が足りないんです。復職するつもりはありませんか?」
「はは。考えておこう」
ひらひらと背中ごしに手を振り、アンクゥの丸っこい背は闇の中へ消えた。
ラーネフェルは、視線を外へと戻した。
あれから、沢山の出来事があった。
全ての始まりとなった、聖牛の黒い瞳と見えたあの日から。
結局、宰相を殺した仮面の男、――カイは、捕まらなかった。
『奴のことが心配か?』
足元に腰を下ろしていた犬が、ラーネフェルを見上げた。
「少しはな。でも、きっと無事だろう。あいつは、俺以外の誰にも捕まえられない」
『ああ。そうだな』
にやりと笑って、セドは、ふさふさとした尾をラーネフェルの足の上に置いた。言葉にはしなくても、互いの考えていることは分かっていた。
この先も、ずっと一緒だ。
どちらかの命運が尽きる、その時まで。
「本当にもう、大丈夫なんですか?」
レニセネブの横に腰を下ろして。ネフェルウは、何度目になるか分からない問いを口にした。
医務室の真ん中には大臣イウフェニのむっちりとした体が横たわり、その周辺で、怪我をした兵たちが手当てを受けている。薬草を手に忙しなく動き回る医師たちを横目に見ながら、レニセネブは額に包帯を巻いて座っていた。
「大したことはない、ただの打ち身だ。出血は激しかったがね」
傷は、屋敷に押し入ってきたインオテフの私兵たちを阻もうとして突き倒された時のものだった。額がぱっくり開くほどの傷を負い、出血が酷かったせいで、母セネブティが卒倒しかけたと、本人は笑いながら話していた。
「どうして、あんな無茶を…」
「さあね。どうしてだろう」
額に手をやりながら、レニセネブは肩をすくめた。
「ラーネフェルの真似が、してみたかったのかもな」
「もうやめてくださいね。絶対に、約束ですよ」
「…ああ」
顔を上げたレニセネブの視線が、ネフェルウの真剣な瞳と合う。
ふっ、と表情を緩め、少女は微笑んだ。
「でも、嬉しかった。あの時、私を庇ってくれたあなたの背中は、――少しだけ、お兄さんに似てました」
ちょっと驚いた顔になったレニセネブだったが、やがてその表情が釣られるように緩み、彼も、微笑んでいた。
「少しは、あいつに追いつけたのかな?…」
血のにじむ包帯に手をやりながら、レニセネブは、呟いた。
「…私はもう、誰かの顔色を気にして口を閉ざしたりしたくない。気持ちを隠して、黙って見ているだけなのは御免だ。ラーネフェルのように、自分の意志で生きられたら…。」
「……。」
意味ありげな眼差しが向けられるのに気づいて、ネフェルウは思わず顔を伏せた。
「私は君が、ずっとうちに住んでいてくれたらいいと思っている」
「あ、あの。それは…考えておきますね。それじゃ!」
慌てて立ち上がり、医務室を出ると、腕に絡み付いていた蛇がちょっと首をかしげ、悪戯っぽくネフェルウの顔を覗き込んで来る。
『顔が赤いですよ、ネフェルウ。あの若者が気に入りましたか?』
「何よ。茶化さないで、まだ喪が明けてないのよ」
『まあ、あなたの兄上とは少し違いますが、あれは、意外と骨の在る若者ですからね。私は、案外悪くないと――』
「もう! まるでワティみたいなこと言う」
口を尖らせながら、ネフェルウは急ぎ足に家路を辿り始めた。
今やそこは、彼女の家だった。レニセネブに言われる以前から、兄ラーネフェルの育った居心地のよい家に、ずっと住んでいたいとさえ思っていた。待っていてくれる人がいるということ。血の繋がりはなくとも両親がいて、暖かな火が待ち受けているということ。それは、子供の頃からずっと心の底で求めていた暮らしそのものだった。
言われるままに誰かのもとに嫁がされ、生きてゆくだけたと思っていたあの日々は、果てしなく遠く。
もはや彼女は、自らの意志で人生を、己の道を、歩き出して行く。
空はよく晴れて、穏やかな風が川を越えて吹いてくる。
祠堂の周りの草は綺麗に刈り取られ、かつてのように心地よい緑に囲まれている。明るい日差しに照らされた白い参道は、眩しい輝きを反射しながら真っ直ぐに祠堂へと続いている。
ラーネフェルは、新しく従者となった少年、ミウを待たせておいて、その道を一人、辿っていた。
目の前には、真新しい姿に生まれ変わったセドの祠堂がある。色の落ちていた浮き彫りは塗りなおされ、傷つけられた神の姿も元通り修復されている。新しく取り付けられた扉の向こうには、作り直された犬の座像が、足元に聖蛇を連れて鎮座しているはずだ。新たに任命された専任の神官によって供えられた供物の花の匂いが、辺りにかすかに漂っていた。
つ、と鼻をあげた灰色の犬は、満足げに辺りの空気を嗅いだ。
『立派なものだな』
「ああ。気に入ったか?」
ラーネフェルが言うと、犬は尾を振り、静かに傍らを離れて祠堂のほうへ歩を踏み出す。
「行くのか」
振り返って、犬は少し頭を下げた。
『しばしの別れだ。”王”の守護神は太陽と鷹。そしてこの街の守護者たる天羊が、お前を導いてくれるだろう。――だが、私はいつでもお前とともにある。再び戦場が呼ぶことがあれば、またお前のもとに現れよう』
「ああ。楽しみにしているよ、その時を」
太陽は頭上に高く輝いている。向き合う犬の足元に影はなく、一瞬、初めて会った時の姿が重なった。
黒い眼差しに写るのは、ラーネフェル自身。
あの時の漆黒のような毛並みは今は、ほとんど銀に近い灰色に変わっている。
犬のそばに膝をついて、ラーネフェルは、その首筋を撫でた。ふさふさとした毛並みの感触と、太陽の光を受けて宿した熱。
「なあ、セド。」
『何だ?』
「お前の毛皮は、やっぱり、太陽の匂いがするよ」
赤い口を開けて笑った灰色の犬の体が、きらきらと光の粒にかわって光の中に溶けてゆく。何もなくなった腕の中をしばらく眺めていたラーネフェルは、やがて、ゆっくりと立ち上がると、閉ざされた祠堂の扉に近づいて、心の中で呟いた。
おやすみ、我が守護者なる”道を拓くもの”。
幾つもの昼と夜を越え、いつか再び共に駆ける、その日まで。
立ち上がり、神殿の外に向かって歩き出す彼の後ろから、天から響くかの如き声が追いかけてくる。
『…二つの国を統一せよ。王冠を戴く者』
『上の国と、下の国とを統合せよ…それが王なる者の使命なれば…』
(判っている)
ラーネフェルは心の中で呟いた。降り注ぐ神々の声は、遥かな神代からの契約の履行を望んでいる。
(だが、それは今すぐには無理だ)
やるべきことは、山ほどあった。戦乱と、有力者たちの権力争いによって疲弊した人々の暮らしを、まずは建て直すこと。軍事力を付けること。国土の統一のためには、どうあっても敵と戦わねばならないのだ。
そう、これはまだ、始まりに過ぎないのだ。
数十年か、ことによれば百年をかけなければその場所へは至れない。
――間もなく、七十日の喪が明ける。
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