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+終章 それぞれの路(みち)の果て (2)
鳥の羽ばたく音で、カイは、うっすらと目を開けた。
大河の中流のあたり、そこは、ほとんど何もない農村だった。彼のいるのは、川べりに繋留された葦舟の中。日避けがわりにかけた茣蓙を捲って体を起こすと、空一杯を白く埋めながら通り過ぎてゆく鳥たちの群れが見えた。
「ありゃあ、渡りをする鳥だぁね」
側の泥堤の上で釣り糸を垂れていた年寄りが、同じように空を見上げながら呟いた。
「季節が変わるんだな」
「ああそうさ。あれから、もう半年にもなるんだなあ――ほれ、あれだ。新しい王様が即位しなさっただろう。」
「覚えてるよ。」
カイは、大きく伸びをして揺れる舟の真ん中に座りなおし、船底に転がっていた椀を川の中に突っ込んで、ぬるい水をすくいあげた。
この季節、川の水は少なく、川幅は狭い。干上がりかけた葦の原に漕ぎ出しているのは、同じような小さな葦舟だけ。とはいえ旅をする者は少なく、多くの農民たちは、間もなく始まる収穫の季節を前に心を浮き立たせる季節だ。涼しい木陰で、もう一人の年老いた農夫が鋤の手入れをしている。
追っ手が来ないのは分かっていた。この辺りは、ウアセトの都からすれば北の国境だ。というより、今や敵地と言ったほうが正しいかもしれない。
以前の王が亡くなり、次の王の即位するまでの喪の期間、その間に、かつてこの辺りを守っていた宰相の息子のセネブカイは反乱を起こし、あっという間に自らの王国を築いてしまった。今では、彼は王と名乗り、沙漠へ続く街道の入口の街に陣取っている。たとえ南のクシュの領土がなくとも、北の海と東の異国への入口がなくとも、沙漠の街道さえ抑えられれば交易で物資は得られるからだ。
セネブカイが、かつての部下たちを率いて王と名乗り始めたことで、この国はさらに分裂してしまった。ウアセトの王朝からすれば痛い喪失だったろう。けれど、この出来立ての小王国とて安泰には程遠い。大河の下流の、異国人の多い王朝の王たちが、最も力の弱そうな競争相手を追い落とそうと、隙を狙っているからだ。
――そんな、世間の喧騒にも、戦乱の時代にも、農夫たちは全く興味がない。
彼らにとっては、以前からこの辺りを取り仕切っていた将軍の一人が、いつの間にやら「王」と名乗り始めた、というだけで、駐留する軍も、税の納め先も、特に変わりはしないからだ。そして国境は、厳しく閉ざされているわけでもなく、人々の行き来する川はいつでも、南から北へと流れ続けている。
「また祭りがあるんだねぇ。都じゃあ」
「ああそうさ、賑やかな祭りだってえ話さ。このへんじゃ、そんな催しはないけんど」
釣り糸を垂れた年寄りと二人、笑いあう。
「お若いの、あんたは祭りを見たことがあるかね」
「いいや。旅はしてるがね」
「そうかい、いつか行ってみるといいよ。すばらしい祭りだそうだからねえ。わしら、刈り入れで忙しくて祭りなんぞ行っとる暇もない―」
「祭り、か。」
小さく笑って、彼は、手元の椀の中で澄んで行く水に視線を落とした。
「…いつかまた、ウアセトに戻るときに考えてみよう」
そんな日が来るとしたら、だが。
あれから、様々な噂を聞いた。
新王が都の貧民街の改革に着手したこと。宰相の屋敷と財産は全て没収され、新しい街づくりのために使われるらしいこと。謀反を起こした三将軍を殺さず、南の砦での兵役で良しとしたこと。それは以前なら考えられなかったようなことで、人々は驚きをもってその決定を口にし、おおむね好意的に受け入れていた。
ウアセトの王たちの、数年ごとに王位の代わる忙しない状況は、ようやく終わりを告げそうだ。あの王ならば、貧民街を含め、民の暮らしをないがしろにするようなことも無いだろう。牡牛の角は、貧しい者から奪う貴族や有力者から奪うために振り立てられる。だから、ウアセトに用はない。――今は、まだ。
すぐ頭上を遅れた一羽が慌てたように群れを追いかけて羽ばたいてゆく。翼の先についた水滴が陽光を受けてきらりと光る。
水を一口飲むと、カイは、舟底に寝かせてあった櫂代わりの棒切れを取り上げた。
「行くのかね?」
「ああ」
「達者でな。どこまで行くのかは知らんが」
棒で水底をつくと、葦舟は岸を離れて川の中ほどへ滑り出す。
そうして舟が対岸にたどり着くと、岩陰から、わらわらと十人ほどの、武器を手にした、いかにもならず者といった連中が迎えに現れる。
「親分、お帰りなさいまし。」
「おう。」
「どうでしたかい? 何か収穫は」
彼は、手下たちを見回してにやりと笑う。
「思った通りだ。ここらを収めてる『王サマ』は、まだほとんど部下の数も持っちゃいない。収穫の時期はこれからだ。資金を手に入れる前なら手勢も増やせんだろう。」
「へっへっ、襲い時ってやつですね」
「ああ。たっぷり頂こうぜ。奴は、都で贅沢三昧だった宰相の息子だからな。手加減してやる義理も無い」
部下の差し出した黒い牡牛の仮面を手に、彼は、振り返って川向うに最近作られたばかりの、漆喰で白く塗り上げられた屋敷のほうに視線を向けた。
そして、
「――どうせなら、『王国』ごと頂いてやってもいいかもなぁ」
ぽつりと、呟いた。
誰もかれもが勝手に「王」と名乗る時代なのだ。
名乗りは大胆にしたほうが、きっと、攻めてくる連中も多くなる。もしかしたら――ウアセトの「王」も。
薄く笑いながら、男は、牡牛の仮面を被る。
時は流れてゆく。
ゆっくりと、だが確実に。
川の黒い流れのように、どこまでも――その流れの往く先は分からずとも、終着点だけは決めていた。
いつか死なねばならないとしたら、あの男の手で殺されたい。
この世でそれが敵わないなら、あの世で裁きの時を待っていたい。
* * * * * * *
複数の王朝が乱立し、「百年で百人の王が立った」と言われたその時代。
後に第二中間期と呼ばれるその戦乱期に、残されている記録は少なく、誰が真に王であり、誰が王で無かったのか、今となってはもう分からない。
けれど、歴史の先に住む者たちは知っている。
それからほどなくして大河の下流は、東の異国よりやってきた異国人"ヘカ・カスゥト"たちの立てた王朝によって支配されることを。
一時は、上流の都ウアセトまでもが、その支配下に置かれることを。
それでもおよそ百年後、ウアセトの王朝は川を駆け下り、ついには国土再統一を成し遂げる。その時、分裂した王朝を再び一つに統合したのは、「セケエンラー」の名を持つ王だった。
それは安易な道のりではなく、その裏には、どれほどの犠牲を払おうとも、どんな時でも道を切り拓くことを諦めなかった人々の、意志と願いがあったと思う。
-了
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