◆黒犬の章(5) 放蕩息子の葛藤

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◆黒犬の章(5) 放蕩息子の葛藤

 夕餉の場となる中庭に面した食卓には、既に父と兄が揃っていた。  小柄で恰幅のよい父アンクゥは大臣の職に就き、陰謀渦巻く王宮で、巧みに政治を行っている。鬱々とした表情の痩せた兄レニセネブは財務管理官で、財政の厳しい現状をどうにか打開すべく、歳入と歳出のやりくりを行っていた。  二人とも、家に帰って来てからは、外に居る間は言えない愚痴や同僚たちの悪口を漏らすのが常だった。ラーネフェルには理解し難いが、宮仕えと言うのはよほど精神的にすり減る仕事らしい。  既にほろ酔いの父の手には、小さくちぎってビールに浸したパンが握られている。  ラーネフェルが姿を見せると、父は急に難しい顔になって手を下ろした。  「セネブティに聞いたぞ。また下街で喧嘩をしたそうだな」 席につくか、つかないかのうちだ。  「人助けですよ、今日は」  「今日は、とは何だ。一体いつになったら大人になるつもりなのだ。せっかく紹介してやった宮仕えの口も蹴って、学校を卒業してからはぐうたら遊び暮らしておる。少しは兄さんを見習いなさい」 ラーネフェルは、ちらと兄のほうを見た。三つ年上の兄レニセネブは、楽しいことがあっても、悲しいことがあっても、いつも沈んだ表情だ。生まれつきそうなのか、あるいは父に叱られ続けているうちに、いつのまにかこの表情が普段のものになってしまったのか。  巨大な石臼でひき潰されて続けてきた者の顔だ、とラーネフェルは思っていた。  兄弟仲は悪くはないが、良くもない。レニセネブは無口な男で、必要最低限の会話以外はほとんどしたこともなく、一緒に遊んだような記憶もない。唯一の兄弟らしい思い出といえば、勉強を教えてもらったことくらいだ。  「文書整理の仕官なんぞ死んでもごめんですよ。西の谷で墓の監督官にでもなったほうがマシだ。俺は文官には向かないと、何度も言ってるでしょう」  「だからと言って兵士だと?このアンクゥの家の息子が? あり得ん。汗水たらして武器を振り、蛮族や逆賊ども相手に命を危険に晒すというのか。いかんぞ、絶対に許さん。お前のその手は、剣を持つためにあるのではない。そんなものにするために育てたわけでは無い」 ひとつため息をついて、ラーネフェルは卓の上の果物をひとつ取った。いつもこうだ。ここ何年も、この話が一歩たりとも前に進んだことはない。”そんなものにするために育てたわけではない”――ならば、政治の道具にするために引き取って育てたのか。王を差し置いて多くの大臣たちがしのぎを削る王宮の中で、少しでも自分の地位と権力を強化するために?  「聞いているのか?わしとて、何時までも生きていられるわけではないのだぞ。兄さんが結婚したら、お前は――」  「その前に、出て行きますよ」 ぎょっとして、アンクゥの顔が一瞬、蒼白になった。  「ご心配なく。ぐうたらな不良息子として死ぬまで厄介になるつもりはありません。家を出て、自分で働き口を探すつもりです」  「ならん、ならん! そんなことを言っているのではないのだ。わしは――」 これも駄目なのだ。  隣でますます沈み込んでいく兄の気配を感じながら、ラーネフェルはもはや口を閉ざし、早くここから離れようと、黙々と夕餉を口に運び続けた。  両親は、何故か彼が家を出ることを酷く恐れている。それは実の子に対する愛情というより、監視すべき者が解き放たれることに対する恐怖のようにも感じられた。レニセネブだって、この違和感に気が付かないわけはない。何も知らされていないだろう兄は、この違和感をどう受け止めているのだろう。  脂に芯を浸した灯がかすかに揺れる。  宵闇の中に漂うのは、母の好きな香炉の煙の残り香。  もはや恒例となった父子の言い争いの一段落したあと、僅かな沈黙の間を経て、食卓は兄の静かな会話に占められるようになった。これも、いつものことだ。今日の職場でのことを淡々と話す兄の話に、怒鳴りすぎて疲れた父は相槌を打つだけ。ラーネフェルは黙って聞いている。何が面白いのかと聞きたくなるような、単調で平和な事務作業の繰り返し。書庫で紙と巻物に取り囲まれ、一日中数字と格闘するのが兄の、会計係の生活だった。父はそこに、ラーネフェルも入れたがっているのだ。ぞっとする。そんな生活をするくらいなら、死んだほうがましだ。  「――で、今度のアメンの大祭には、新しく成人の年を迎えた唄い手たちが――」 召し使いがビールとパンの追加を盆に盛って入ってきた時、さわ、と入り口の布が揺れた。  ふと、ラーネフェルは顔を上げた。その向こうに気配を感じた。そこにいるはずのない存在の金色の目が、こちらを見ている。彼は即座にその意味を理解して席を立った。  「おい、ラーネフェル」  「先に休みます。お二人はどうぞごゆっくり」 すれ違いざま、召使の手から鴨肉の料理が乗った盆とパンの籠をひょいと浚う。「これは夜食代わりに貰っていくよ」驚いた顔の召使がうんともすんとも言わないうちに、ラーネフェルは、小さな明かりが揺れるの薄暗がりの廊下の闇に姿を消していた。  部屋に戻ると、卓の上には油ランプが灯され、寝台の上には寝具が整えられて、汚れた上着の布は洗濯のため回収されていた。持ってきた盆を卓の上に置き、ラーネフェルは何処へともなく声をかけた。  「出て来いよ。晩飯を貰ってきてやったぞ」 するすると卓の下の影が動いた。黒犬の鼻面が見え、耳が、前足が――やがて体の前半分が姿を現す。  『ああ…良い匂いだ。何時振りの供物だろうか』  「お前のような存在でも腹が減るのか」  『減るとも。人間のように食わずとも、死なぬだけだ』 ぺたりと床に体をつけたまま、黒犬はひくひくと鼻を動かし、時折口元を小さく動かした。それで食べていることになるのかどうか。盆に盛られた肉は少しも減っているようには見えないが、何か目に見えないものを食べているのかもしれない。  食事中の黒犬は放っておいて、彼は中庭を見下ろす窓に近づいた。向かいの斜め下に、まだ父と兄の食事している明かりが見える。家族の部屋は中庭を取り囲むようにあり、大通りに面した表側は父と母、その隣が兄の部屋。家の一番奥、通りからは隔てられ、中庭側にしか窓の無い部屋がラーネフェルのものだ。  「なあ、聞いてもいいか」  『…何だ』  「俺はどうして、この家で育てられた? どうして、ここに閉じ込められている?」  『というと?』  「あんたの知っている俺の”血を分けた両親”ってのは、この家の両親のことじゃないんだろう?」 返事は無い。背後には、沈黙だけが蟠っている。  「答えられない、か?それとも覚えていないのか。まあいいさ、言わなくても分かる。血が繋がってるなら、あんたの姿は父上や母上にも見えていたはずだ。俺にしか見えないなら、そういうことなんだろう。」  『…そう思っていながら、知りたいのか』  「俺は、得体の知れないものに自分の人生を決められるのが嫌でね。」 窓枠に手をかけながら、ラーネフェルは、夜の澄んだ空気を肺いっぱいに吸い込んだ。緑と土、それに微かな砂の香り。砂漠から吹く風が運んでくる、人の手の及ばぬ異界の気配だ。  「今の家族が嫌いってわけじゃないが、少々過保護すぎるのが気に入らない。じかに聞けば、あの人たちは取り乱すだろう。兄上の平凡な人生も壊したくはない。かといって、俺の人生を犠牲にする気もない」  『ふむ』 赤い舌で口の周りを舐めながら、黒犬はゆっくりと立ち上がった。明らかに、さっきまでより一回り大きくなっている。振り返ったラーネフェルは、全身黒づくめだと思っていた犬の耳の裏と尾が微かに灰色なのに気づいた。  『人間の一生とは難しいものだな。それは私にも分かる、何人もの人間が生まれては死ぬところを見てきた』  「お前、俺が生まれた時のことを知ってるなら、俺がこの家に預けられた経緯(いきさつ)も知ってるんだろう」  『おそらくは――。』  「なら、思い出してくれるそれに期待してみるか」 窓を閉ざすと、ラーネフェルは盆の上にある肉付きのよい鴨の足をひとつ取って、口元に運んだ。  「残りは明日の弁当だ。早めに出発しよう。日が昇ってからだと母上にうるさく問い詰められそうだからな」 ごろりと寝台に横になったラーネフェルの足元に、黒犬もうずくまる。その姿はまるで、忠実な番犬が主人の就寝中を守っているかのようでもあった。
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