◆黒犬の章(6) 日の沈む岸辺

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◆黒犬の章(6) 日の沈む岸辺

 夜明けの地平線が白く輝き、世界に朝が訪れる。  生まれ出たばかりの若い太陽の乗る舟が東より世界をあまねく照らし出し、街の家々の隙間から、谷の入り口から闇を追い払う頃、人々は今日を始めるべく床を離れる。それは、ラーネフェルも例外ではなかった。  太陽の熱を受けて間もないひんやりとした朝の空気が、館の廊下を漂っている。家族はまだ誰も起き出して来ていない。朝餉の支度の火を起こそうとしていた老召使は、台所脇の裏口からラーネフェルが出て行こうとするのに気づいて、目をぱちぱちさせながら顔を上げた。  「どちらへ、若様?」  「墓参りだ。昼は要らない」 言いながら、戸口に引っ掛けてあった乾燥させた果実の連なりを一房、ちぎって、手にした包みの端に押し込む。  「母上には、何も言わなくていい」  「かしこまりました。行ってらっしゃいませ」 老婦人は、ゆっくりとした動作で頭を下げた。ラーネフェルが子供の頃から、この家に仕えているのだ。彼が人知れず出かける時の対応は心得ている。  貴族街はまだ眠りの中にあり、裏路地に人の姿はほとんどない。この界隈の住人たちが、起き出してゆっくりと朝餉を食べ、仕事に出かけるのは日も高くなってからのことだ。  だが、日の出とともに仕事を始める農民たちは、もうすでに畑へ赴いている。街を離れるとすぐ、その先の川辺に広がる緑の畑に、人の姿が点々と動いているのが見えた。そして川には、魚をすなどる漁師たちの小舟が浮かんでいる。ラーネフェルは振り返らなかった。姿は見えなくとも、あの黒犬がぴったりと着いて来ていることは気配で分かる。  向かった先は、川べりの桟橋だった。  そこには、渡し船や猟師たちの使う漁船が並んでいる。朝もやに包まれた大いなる川の水面は今朝も穏やかで、小さな波だけを立てながら、とうとうと都の前を流れ過ぎていく。  やって来た、いかにも貴族然とした格好のラーネフェルを見て、猟師たちは怪訝そうな顔をした。貴族たちが舟遊びに使う舟の桟橋は、もっとずっと下流の、街に近いあたりにあるからだ。  「これから出るなら、ちょっと向こう岸に渡してくれないか」  「あんたをかい?」  「そうだ。」 ラーネフェルは、包みの中から半切れのパンを一つ取り出した。  「あまり目立ちたくないのでね。理由は聞いてくれるな」 漁師は、訳知り顔でパンを受け取りながら、にやりと返した。  「そうかい。それじゃ乗りな」 貴族といっても、上は大臣から下は下級役人まで幅広い。自家用の舟を持たない者もいれば、持っていても何らかの事情で使いたくないような者もいる。お忍びの用だの、いかがわしい目的の時だの。”お偉方”の抱える、そうした様々な事情には首を突っ込まないのが平民の心得というものだ。  ラーネフェルは、杖と包みを抱えて葦作りの舟に乗り込んだ。他の誰にも見えていないが、黒犬もひょいと縁を飛び越えて傍らに腰を落ち着ける。  「それじゃ出ますぜ」 船尾に立つ漁師は、櫂代わりの長い竿で岸を突いて舟を流れに押しやる。小さな葦舟はゆるやかな川の流れに運ばれ、あっというまに川の中ほどへ滑り出した。周囲には、同じように岸を離れてきた漁師たちの舟が、そこかしこで網を打って、魚を獲っている。いつもの朝の風景だ。  振り返ると川の東側には、さっき発ってきたばかりの都の大門と密集した家々の塊が、そしてこれから向かう西側には、ほとんど何もない茫漠とした沙漠と、まだらに作られた村と畑の繰り返しが広がっている。陸を東と西に分ける大河の両岸を彩るものは、青々とした葦とヤシの木の茂みだ。  都の西岸は、古くから住んでいる住民がいる以外、まだ、ほとんど整備の手が付けられていない。都そのものでさえ、いまだ最低限の機能しか持たされていない。下流の街にはあったという、王権を誇示するような記念碑も、巨大な王の像も、この辺りには、まだ、一つも作られてはいなかった。  とん、と軽い衝撃とともに舟が岸ついて、驚いた水鳥がすぐ側から飛び立った。  「さあ、着きましたよ。旦那」  「助かったよ」  「どういたしまして。それじゃ、お気をつけて」 葦の間に立つと、冷たい水とともに泥がサンダルの隙間にしみこんでくる。ラーネフェルは、服の裾をたくし上げながら川べりの堤防の上を目指した。  川の西岸は、喧騒に包まれた東岸の都と違って住人も少なく、穏やかな農村といった雰囲気だった。  浅い川の水が刈り入れの終わった畑を覆い、側のナツメヤシの木に繋がれた牛が、のんびりと畦道の草を食んでいる。杖を握る手も緩み、自然と心が落ち着いてくる。どこにスリやならず者が潜んでいるか分からず、緊張を解くことも出来ない都の通りとは大違いだ。  しばらく川べりを歩いていたラーネフェルは、行く手に、目指す住人の姿を見つけた。ちぎった葦の枝を振り回しながら、どこかへ向かおうとしている少年だ。サンダルも履かず、身に着けているのは腰布だけ。  「あ」 ラーネフェルと目が合うと、少年はあわてて道の脇に退けて目を伏せた。身なりからして相手がただの町人ではないと判断したのだろう。近づいて、ラーネフェルは出来るだけ怖がらせないよう気を付けながら少年に声をかけた。  「お前は、この辺りの住人だな」  「は、はい。すぐそこの――ネネト村の」 緊張で強張った声が返してくる。  「お前の村に古老はいるか?年取った人だ。十五年くらい昔のことを覚えている人なら誰でもいい」  「いるよ、おじい――年取ってる。もう目は見えないんだ」  「話を聞きたくてね。案内してもらいたい。」 少年は、ちょっと目を上げ、ラーネフェルの表情を伺っているようだった。  「案内してくれたら、いいものをやろう」  「いいもの?」  「ほら」 包みの中から、家を出るときくすねてきた、干した果実を見せる。少年の目が輝いた。  「こっちだよ」 葦のムチを振り回し、元気に走り出す少年の跡を追って、ラーネフェルも足早に歩き出した。  案内されたのは、粗末な日干しレンガの家が十軒ばかり軒を連ねた小さな村だった。牛やヤギがそこかしこに繋がれ、柵の中では家鴨が卵を温めている。獣の匂いと、糞の匂い。騒々しい家畜の声に混じって、どこかから赤ん坊の泣き声まで聞こえてくる。そんな場所に突然姿を現したラーネフェルは、少々場違いな存在に見えた。  「おじいー! お客さんだよお」 先導役の少年は、早くも目的地に着いたようだ。村の奥にある一軒の家の入り口で声を上げて呼ばわっている。それから、振り返ってラーネフェルを手まねきした。  「こっち、こっち」 ラーネフェルが少年に追いつくのと、戸口に老人が姿を見せるのは、ほぼ同時だった。日差しの中に現れたのは、しわくちゃでもう髪もほとんどない、背の曲がった枯れ木のような老人だった。  「わしに用とは…どちらさまで…」  「川向こうの街の住人ですよ。少し、ここいらの昔話を聞かせてもらいたくてね。」 言いながら、ラーネフェルは期待に満ちた目でこちらを見上げている少年に、包みの中から掴みだした果実を二つ、三つと、パンをひとつ差し出した。  「ほら、おまけだ。」  「やったあ! ありがとう」 道案内の報酬を受け取った少年は、喜び勇んでぴょんぴょん飛び跳ねながら行ってしまった。老人は、見えない目でそちらに顔を向ける。  「…あなた様は、お役人様ではありませんな? 近いのは軍人か…それにしても、身分のある方と思われますが」  「どうしてそう思うんです? 俺は今のところ、ただの無職の放蕩息子ですよ。」  「長年生きた勘ですよ。まあ、おかけくだされ、その辺りに長椅子がある。家の中は、とても身分の高い方をお入れできるような場所ではないので」 老人は、手で家の壁をなぞると、そこに沿うようにゆっくりと入り口の地面に腰をおろす。ラーネフェルも、老人の言う長椅子と思われる、積み上げた日干し煉瓦に板を渡したものに座った。  「それで…聞きたいこととは…」  「この辺りで、十五年かそこら前に無くなった街か村が無いかと思ってね。村でなくてもいい。古い神殿とか、今はもう無い祠とか。どこか、黒犬の守り神を祀ってたところはないだろうか」  「祠…守り神…?」  「行方不明になった神の家を探してるんですよ。黒い犬の姿をした神のね」 老人は、しょぼしょぼと眉を動かし、記憶を探るように、濁った目を天のほうに向けた。  「十五…十五年前というと、王様はまだ、この辺りに住んでおりませなんだな…」  「ああ。都はまだ、下流の街にあったはずだ。それでも、都に家を築こうとしている連中は既にいたはずだ」 ウアセトの街は、その頃から"都"となるべく造られ始めたはずだった。そして、名のない犬が「名の無い者」となったのも、まさにその頃だ。  「ううん…。」 天に向けていた顔をゆっくりと俯け、老人は、何か思い出すように口元をもぞもぞと動かした。  「――ありませんな、そのような記憶は」  「無い?」  「川のこちら側では、村も街も、五十年も昔から減ってはおらんのです。移住させられた村はありますが、別の場所にそのままです。守り神を捨ててきたうなところは、ありません」  「では、放棄された神殿や祠は? 今はもう祀り手のいないような場所は」  「さて、それも…。黒犬の神様などは、最近やってきた、墓守たちの好む守り神ですしなぁ…」 老人は、しわだらけの手を額に当てて考え込んだ。  「ああ…だが…もしかしたら、都が遷る時に下流から移住してきた者たちが、新しく持ち込んだことはあるのかもしれません」  「そんな場所が何処かに?」  「ウアセトの都ですよ。あそこにはいつの間にやら、沢山の祠が作られるようになったようですからな。」 聞けたことは、そのくらいだった。  午前中いっぱいかけて、ラーネフェルは近隣のいくつかの村を回って同じように話を聞いてみたが、結局、西岸では、それと思われる失われた集落や祠の手がかりは見つけることは出来なかった。
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