◆黒犬の章(1) 杖の貴人

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◆黒犬の章(1) 杖の貴人

 一瞬の出来事だ。小さなうめき声を上げたあと、最後のならず者は地面を舐めて動かなくなった。  人垣の中心にいたラーネフェルが動き出すと、取り囲んでいた怯えた目の民衆が、つられて波のように動いた。崩れかけた日干しレンガの軒がひしめき合う埃っぽい街角。ほぼ中天からこちらを見下ろす白く輝く太陽。強い日差しの作る濃い影が、建物の隙間に深く落ちている。  そこは、貧民街と呼ばれる貧しい地区だった。そんなところに身なりの良い若い男がたった一人、武器も持たずにやってきて、あっという間に札付きの連中をのしてしまったのだから、人も集まろうというものだ。  「おい」 ラーネフェルが声をかけると、一番近くにいた煤けた顔をした若い男がびくりとなった。  「衛兵は?呼んだのか」  「い、いや…」  「そうか。なら好都合だ」 呼んだところで、滅多に来ないのは分かっていた。仕事ばかりキツくて実入りの少ない衛兵は、ただでさえ手が足りない。そしてこの街は、ろくな税収も見込めず、徴兵の足しにもならないから、貴族も役人もほとんど見て見ぬふりをしている。「都」として正式に定められた都市境界碑より外側に、流れ者たちが集まって、勝手に作った集落は、のと同じと扱われているのだ。  殺人、物取り、強姦――法の監視の目の目の届かぬこの場所では、あらゆる罪が野放しであり、己の身は己で守らねばならない。そんな場所だからこそ、先ほどの出会いは不可解だった。  見回すと、さっきまでならず者たちに絡まれていた少女の姿は、もう無かった。  その日、ラーネフェルはいつものように貧民街を横切って、郊外に住むかつての乳母の住まいを訪ねるつもりだった。  彼にとってはよく通る道だった。幼い頃には貴族の家柄なのを隠すためにわざと目立たない格好もしていたが、腕っぷしに自信を覚える年頃になってからは次第に大胆になり、今では、ほとんど素のままの格好で、大っぴらに一人で出歩いている。手にしているのは丈夫な木製の杖だけだ。それでも滅多にちょっかいをかけられないのは、貧民街の昔からの住民たちは既に、一度か二度は痛い目に遭わされて、彼の確かな自信の理由を知っているからだ。  だから、まだ痛い目を見ていない新参の札付きたちがとった愚かな行動も、その結果も、古参の住民たちからすれば当然の結果だった。  通りかかったラーネフェルが若い女性の悲鳴を耳にしたのは、密集した建物の作る影の隙間を縫うように真昼の熱を避けて歩いていた時だった。  「離して。離してください…」 か細い声に足をそちらに向けた。助けを呼んでいたのは、十五になるかならないかくらいの年頃の、長い黒髪の少女だった。この辺りでは珍しい、清潔な白い布を纏っている。質素な身なりではあったが、この町には似つかわしくない雰囲気。中流階級の家の娘か、良い家の使用人か。道を間違えたか何かだろうか。身元を示す飾りなどは何も身に着けていなかったが、髪から発する微かな香油の香りからして、下級層に暮らしている身分ではなさそうだ。  「おい、その手を放せ」 ラーネフェルは、下種な顔をして少女の足を掴んでいる、しらみと垢だらけの男を見下ろした。ボロ布のような腰布だけを纏い、路端に引いた葦の敷物の上に寝そべって、昼間から酒の臭気を漂わせている。大方、物陰をねぐらにしている流れ者の一文無しだろう。ここは曲がりなりにも王国首都、人の集まる大都市には、どんなろくでなしにも、まっとうでない手立てでも、糊口(ここう)を凌ぐ程度の稼ぎの口はある。  男が返事をしないのを見て、ラーネフェルは無言に手にしていた杖で男の腕を荒っぽく突いた。その弾みで手が離れ、少女はよろめいて数歩、壁ぎわに離れる。路地は狭く、それ以上は離れようがない。  「何をする! この、…」 苛立った様子で起き上がった男は、「お」と小さな声を挙げて、たるみきった顔ににんまりと下品な笑みを浮かべた。  よくよく見れば、せっかくのお楽しみにちょっかいを出してきた若造のほうが上物ではないか。こんな町のゴミためのような界隈ではまずお目にかかることのない、洗い立ての真っ白な薄透明の上着に金糸の帯。腕輪に胸飾りまでつけている。どれも上等な品だ。どこかの貴族か重臣の家の者か、いずれにせよ、お供も連れずたった一人でこんなところをウロついている身分では無いことは一目に知れる。  「よう兄ちゃん、分かってるんだろうな、この町はな、あんたみたいな、お上品な旦那の来るところじゃねぇんだよ」 もはや少女のほうには目もくれず、大柄な宿無しは、いざ仕事とばかり、むくりと起き上がった。  「あの娘の代わりにお前が相手してくれるってんなら、いいぜ」  「悪いが、そういう趣味はない」 くるりと杖の先を回し、ラーネフェルは真顔で答える。  「それと、俺は急いでいる。今は――」 男の仲間と見える連中が、後ろの建物からぞろぞろと姿を現して、言いかける彼の左右を固めてゆく。手には棍棒や、砂を詰めた麻袋をぶら下げている。どれも、安価に手に入る暴力のための武器だ。  「…時間が惜しいんだ」 溜息とともに、彼は杖を構えた。負ける気など、さらさらないのだった。  ――それが、少し前のこと。  そして今、ラーネフェルの足元には、鼻や歯を折られたり、ひっくり返って泡を吹いているならず者たちが積み重なっている。  全ての邪魔ものを片づけ終えた彼は、周囲を見回して、先ほどの娘が居なくなっていることを確かめた。  「あの子は、無事に逃げたのか?」 ラーネフェルが周囲を見回して問うと、取り囲む人々は顔を見合わせ、口々にさざめいた。  「さっき、…大通りのほうに走っていったよ」 一人が、おずおずと答える。  「そうか。」 それだけ言って、彼は袖口のほこりを払い、何事もなかったかのように、杖を手にいつもの道を歩き出した。  少し足止めを食らってしまったが、約束の時間にはまだ間に合う。人の輪が割れて、沈黙とともに彼を通す。去ってゆく後姿に、多くの人々の視線が集まっていた。  「なんて腕だ。棒切れ一本で全部のしちまった」  「何者なんだい?」  「さぁ…。ま、少なくとも、こっちから手出ししなきゃあ、何もしてこないんだ。通り抜けるだけだ。触らぬ神に祟りなし、ってやつだよ。」  「神ね。ありゃあ、戦の神(モントゥ)の神官か何かじゃないのかい」  「かもなぁ。そういや今度、王様が、戦の神の神殿も建てましすると言っていたな」  「いやだよ、また税金が上がっちまう」  「どうせ払わないくせに」  「ちげぇねぇ。」 口々に噂しあい、くだらない話題に笑いあいながら、住人たちは、通りにのびている連中を横目にめいめいの家や仕事に戻っていく。  男が何者なのか、はっきり知っている者はいない。だが、身なりからして王宮に近い貴族街か、その辺りの住人なことは間違いないかった。  供の一人も連れず堂々と貧民街を通り抜けるその男は、いつしか、誰からともなく”杖の貴人”と、呼ばれるようになっていた。
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