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プロローグ~俺の妻は腐人へと昇格した、らしい~
手に持っている書類を一体何度目かになるのか、隣に立つ女性が自身が掛けている眼鏡の縁を上げながら「もう一度、確認しましょう! 漢字、合ってますでしょうか? 不安です、とてもっ!」と言いながら奪おうとするので、「確認なら二人で何度もしたでしょ? 大丈夫、安心して」と言って落ち着かせる。
「で、でも、万が一間違いでもあったら直すのとか大変ですし」
「大丈夫。それとも俺の言った事が信じられない?」
「いえ、神宮寺さんの言う事の八割五分くらいは信じてますが」
「八割五分って、かなり微妙な数字だよね。そこは百にして欲しいかな」
「あっ、す、すみませんっ……! 決して信じてないわけじゃないですよ!」
「……まあ、良いけど。というか、その゛神宮寺さん゛っていうのもやめにしよ? 俺達、これをそこの窓口に出したら夫婦になるんだよね? つまり、葉月さんも゛神宮寺゛になるのだから」
「あ……はい、そ、そうですね」
俺の言葉に、途端に頬を赤らめて恥ずかしそうに視線を反らす彼女ーー里見葉月の様子を見て、自然と笑みが溢れた。
そういうところ、本当に可愛いな。
声に出してしまうと、彼女が余計に赤くなってしまうだろうから、そっと胸の内で呟いたところで、漸く市役所の総合窓口で渡された番号札に書いてある番号がアナウンスで流れた。
「わっ、とうとう呼ばれてしまいましたっ」
「さあ、葉月さん、行くよ」
「は、はいぃ」
少し緊張で震えている彼女の手を引いて、感じのよさげな女性が手をあげている窓口へと足を進ませた。
「婚姻届けの提出に来ました」
そう告げると「おめでとうございます」と、優しげな笑みを返された。それから滞りなく諸々の手続きが進み、市役所を出たのは、そこに着いた時刻から一時間半は経つ。
「ーー葉月さん、この後、どうする? 予約しているレストランまでには時間があるけど、どこか寄ってから行く? それとも家に……」
「えっと、ご迷惑でなければ本屋に行きたい……です」
本屋……か。
視線を泳がせながら小さく返答された言葉に、彼女が一体何が欲しいのか直ぐに検討がつく。
「入籍日でも、あれを買うってことだよね?」
「すみませんすみませんっ! でも今日発売の本は、私が大好きな作家さんの一年越しの新刊でしてっ……! しかも二冊同時のっ! そんな作家さんの新刊発売日が、私の入籍日なんて凄く奇跡に感じてどうしても今日購入して、そして今日中に拝みたいんですっ!」
普段大人しい彼女が珍しく熱弁するものだから、「今日は駄目」とも言えず、「仕方無い、今に始まった事ではないしね」と返す。
「神宮寺さん、ありがとうございますっ! そういうところ、本当に好きですっ」
「……っ」
不意打ちの彼女からの嬉しすぎる言葉に、今度は俺の方が顔を赤らめる。
全くもう……。
あなたがそういう顔を見せるから、あなたが好きな物を否定する事なんて、俺には一生出来そうにない。
まあ、でも、それは置いといて。
とりあえず、夫婦となったのだから、一応確認しときたいことがある。
「因みに、ーーBLと俺、どっちが好きかとか聞いても良い?」
「その答えは不毛ですね、どちらも同じくらい大好きですよ」
秒で即答される。
「……そうだよね、うん、嬉しいよ」
そう言いながらも、少しばかり、俺の名前を言ってくれるかと期待したが、何とも微妙な答えに俺は苦笑した。
でも彼女らしい。
゛大好き゛その言葉に免じて、今は何も言わずにおこう。
葉月さんは所謂、゛腐女子゛という部類に入る女性で、そんな彼女に惚れた俺の負けなのだ。
本屋に向かおうとそっと彼女の手を握り、歩き出そうとした時だった。「……あ」と彼女は何かを思い出したかのように声を出す。
「どうかした?」
「気付いたんですけど……私、結婚したので゛腐人゛になったんですね」
婦人? ふじん? フジン?
彼女が唐突に、何の脈略も無く意味不明な言葉を発するのは今に始まった事ではない。
「……そうですか、良かったですね」そう相槌を打つと「何だか昇格した気になりますね! 最終形態は腐ェニックスとか腐死鳥なので、そのランクになれるでしょうか」と、これまた漢字変換が可笑しくなりそうな言葉を連呼し始めた。
「……良く分からないけど、なれると良いね」
「うーん、……あ、でも、腐人のままで良いです」
「何故?」
「神宮寺さんの妻って感じがするからですかね」
「……また、そんな恥ずかしい台詞をぽろっと」
「ええっ、すみませんっ!」
「謝るなら、今日は買った漫画は読まないで、一晩中、俺と一緒にいてよ」
「それは無理です」
「……ですよね」
やはり腐女子から腐人へと昇格したらしい俺の奥様は、記念すべき入籍日にBL本を堪能するらしい。
妬く気持ちが無い訳ではないが、仕方無い。それが彼女、神宮寺葉月(旧姓は里見)という女性なのだ。
まあ、でも、とりあえず。
婚姻届けも無事に出せたわけだから、これから新たな生活がスタートすることになる。
少し珍しい趣味を持つ彼女と、俺ーー彼女の言葉を借りるならスパダリ男子である神宮寺颯人の二人での生活が。
正直、この俺が結婚だなんて今でも信じられない。しかも葉月さんは、今まで付き合ってきた女性とは全く異なる人だ。
まあ、だから惹かれたのかもしれない。
タイプが全く異なる俺達二人の出合いは、約数ヵ月前まで遡る。
それは、俺の同期からの誘いが切っ掛けだったーー。
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