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田舎滞在最後の日の朝、ぼくは源氏物語を片手にお姉さんの散歩コースの林へと向かった。いつもであればこの時間にお姉さんはゆっくりと歩いて……
いない。
数分の誤差こそあれ、いつもの時間。お姉さんがいないなんて珍しいな。ぼくはそう思いながら診療所へと向かった。診療所の前に辿り着いたぼくは呆然と立ち尽くした、この前見た病院とは全く違った光景だったのである。この前見た時は古き良き木造建築の平屋建てだったのに、今、目の前にある病院は単なる木造の荒屋、木も腐り黒ずみボロボロ、診療所の看板も地面に落ちてシロアリに食われて見られたものではなかった。
そんな馬鹿な、ぼくはすっかりお化け屋敷化した診療所の中を行く。床もところどころ腐っており足が抜けてしまわないように慎重に一歩一歩を踏みしめてお姉さんのいる病室へと向かった。
お姉さんの病室も似たような感じであった。木造の壁や床に関しては言うまでもがな。ベッドも赤錆が出来ており、赤いパイプベッドと化していた。それはまるで何年もここに立ちった者がいない廃墟であると言っているようだった。
最奥窓際のベッドはお姉さんのものだ。ぼくはそこにお姉さんが居て欲しいと考えていた。しかし、そこには誰もいない。開けっ放しになった窓からは夏特有の熱風混じりの風が入り込む、その風に揺られてお姉さんのベッドの壁際にハンガーで架けられた白いワンピースが風にたなびいて幾つものひだを作りながら揺れ動く。
ぼくは思わずワンピースを手に取り、両手でぎゅっと抱きしめた。ワンピースからはお姉さんの春風のような爽やかな香りがほのかにする。ワンピースの胸のあたりに顔を埋めればその香りは芳しく強くなる。
なぜか、もう二度とお姉さんには会えないような気がしたぼくはそのまま泣いてしまった。
最近読んだ空蝉の袿を持ち帰り、彼女を思う光源氏の気持ちが分かるのであった。
空蝉の 身をかへてける 木のもとに なほ人柄の なつかしきかな
ぼくもこの歌のようにお姉さんのことを想っていた。空蝉のように残されたワンピースを抱きしめながら。
この後は空蝉が返歌をするのだが、その返歌もぼくの気持ちと同じだった。
空蝉の 羽に置く露の 木隠れて 忍び忍びに 濡るる袖かな
ぼくもお姉さんのことを想って泣き濡れていた。
帰り際に祖母に聞いたのだが、あの診療所は昭和の当時には不治の病に侵された子供達を隔離しておくための場所だったらしい。夏ともなれば朝の涼しい内に散歩する入院患者がいたとのことだった。
当然、現在は閉鎖済で、ここ数年は地元民すらも訪れていないとのことだった。
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