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本来、武士は武士道を弁え、道義に厚く一般庶民の鏡となるべき存在だ。しかし現代のサラリーマンみたく年がら年中、縄で縛られ、上役にペコペコしているのが武士と言えなくもない。そんな連中を軽蔑して組織の中にいることに嫌気が差して脱藩、それは見上げたものだが、浪人でありながら色摩である新之助は、それ故に亀鑑とは成り得ず矢鱈に人目が煩い長屋暮らしに不自由を感じていた。
そんな折、蛤町に一戸建ての空き家があると浪人仲間から伝え聞き、店賃も存外安いとのことなのでそれはお誂え向きだと新之助は思った。ところが、それは人々の間で幽霊屋敷と噂され、誰も住みつこうとはしないから店賃が安いのであって曰く付きの物件であった。現にそこに移り住む者は夜な夜な出入りする女の幽霊の仕業であろう、悉く変死するのであった。その幽霊を目撃した者によれば、柳腰の得も言われぬ美人とのことなので新之助はそれにも惹かれ、結局、憂慮する声を押し切って引っ越しを断行し、その晩、早速、女の訪問を受けた。
「ごめんくださいまし!」
玉を転がすようと形容すべきは正にこの声だと新之助は色めき立ち、冠木門の手前まで来ると、「こんな夜分にどなたでござる?」と誰何した。
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