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裏切りと再会
もう駄目だと思ったのは、玄関に行儀良くならんだ靴が原因だ。
これまでも性別はなんでもありだったので、男物であることは驚きでもなんでもない。その真新しいスニーカーが見覚えのある品で、寝室から聞こえてくるのが聞き覚えのある声でさえなければ、そっと玄関のドアを閉めて見なかったフリをしたかもしれない。
けれどこれは駄目だ。超えてはいけない一線を、彼はなんの躊躇いもなく踏み越えたのだ。一瞬の激昂は、すぐに冷えた怒りに置き換わった。
今日でもうお終いだと、自分でも驚くほど冷静に結論が導き出された。
1
俺も陸が好きだから。
中学生の頃から入り浸っていた恩師の離れは、鹿嶋陸にとっては秘密基地のような場所だった。
戦前から続く旧家でもある梶家は、背後に控えた山まで含む広い敷地に立っている。本宅から離れているからか、草木の生茂った離れの周りは夏になると虫たちが我が物顔で鳴きわめいていて、なんだか別の時代に紛れ込んだ気がして少し怖かった。
それでも、あのどこか現実離れをした、古い書物と化石に囲まれた空間が好きだった。長い歳月を経て黒く変色した木や、カタカタと音を立てるガラス戸。暗く落ち着いた色に沈む室内から見える外の世界は、貪欲に枝葉を伸ばす木々の緑と夏の空がただ眩しくて、煩わしい日常のことなど忘れてしまえた。
好きに使っていいよと言って離れの鍵をくれた恩師は、そんな複雑な心境を察していたのかもしれない。他人の優しさに甘えて毎日のように過ごしていた空間に、先客が居るようになったのはいつ頃からだったか。
暁人はこの離れの主である恩師の息子で、この辺りでは有名人だった。幾つになっても坊ちゃん先生と揶揄われる教授に似た朗らかで優しい性格に、早くに亡くなったという母親から譲り受けた甘やかな容姿。
噂に聞く小さい方のお坊っちゃんと初めて口を聞いた日から、彼はこちらが居る時に合わせるように離れを訪れるようになった。
三歳の差、旧家の跡取りと平凡な家庭の長男。誰からも愛されることが当たり前だった暁人と話が合うとは言い難かったが、不思議と彼との時間は穏やかで心地良かった。
「好き、です」
あの日。大学入試を控えた最後の夏休み、別れを告げるつもりで訪れた書斎で、なぜ墓まで持っていくべき心を吐露してしまったのか。独り言であったそれに何かが落ちる音がして、振り返った先には大きな目を見開いた暁人がいた。
「陸」
年下のくせに躊躇いなく人を呼び捨てにした小学生は、いつの間にか出会った頃の自分と同い年になっていた。日本人にしては明るい茶色の目が、瞬きを繰り返しながらも真っ直ぐにこちらを射る。
「俺も、俺も好き。俺も陸が好きだから」
小さな化石が床に落ちて鈍い音を立てる。蝉が鳴き声が本当に馬鹿みたいにうるさくて、窓を背にした暁人がやけに眩しかった。
呆然としているうちに近づいて来た暁人に抱きしめられて、そのまま触れ合うだけのキスをした。冷房をつけていなかった室内で感じた体温と汗の匂い。
その日から暁人とは、そういう意味で付き合う関係になった。
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