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解剖学の講義はかったるいけどスリリングだ。人体の構造を詳しく知れば知るほど、それを破壊する方法にもバリエーションが増える。誰にも言っていないが、私は人の死をたくさん見たくて医師を志した。
部活に入って飲み会にも行って、時々は合コンにも誘われて、私は表向き充実したキャンパスライフを送っている。けれどその実、セクハラ部長の眼球を出刃包丁で貫き、下ネタを連発する教授は磔にして肛門から槍を突き立てる想像をしていた。
このクソみたいな世の中で、唯一安心できるのは人の死だ。どんな悪い人間でも、死に行く姿を見たら許せる。悪人を許せば許すほど私の汚れは清められていく。そんな感覚を抱いていた。
私の身体に穢れが深く染み込んでいると気付いたのは、十歳になる前の保健体育の授業だった。男女の身体の違い、初潮や精通、セックスについて、初めて聞く言葉を先生ははきはきと説明してくれた。そして望まないのに身体を触られるのは性犯罪だから決して許してはいけないと、先生が少し怒ったような顔で話すのを見た途端、強風にさらわれたように私の意識は遠のいていった。
気が付くとベッドに寝かされていて、先生が傍に座っていた。「ちょっと刺激が強かったかな」優しい口調で先生は言った。私は首を振った。多分先生の目には純真な少女が性の知識に翻弄されたと映っていたのだろう。だけど違う。私はちっとも純真なんかではなかった。早く一人になりたかった。「もう大丈夫です、すみませんでした、さようなら」早口で言うと脇に置かれていたランドセルを抱いて足早に保健室をあとにした。
あれは小学校で最初の終業式の日のことだった。道端の花に気を取られて分団からはぐれてしまった私は、突然の大雨に降られて水溜まりを踏み散らしながら走って帰った。家の近くまで来ると雨は上がったので、空に天使の梯子を見ながらぐじゅぐじゅ音の鳴る靴でとぼとぼと歩いていると、朝の通学路で見守り隊をしてくれている黄色い旗のおじさんが声をかけてきた。おじさんは「タオルを貸してあげる」と私の手を取り自分の家に招き入れた。そして玄関に鍵を掛けると、布団ほどもある大きなタオルを持ってきて私の身体を包み込んだ。柔らかいタオルは花の香りがした。おじさんは私の髪をごしごしと拭いてくれた。自分で拭けるのにと思いながらじっと立っていると、「風邪をひいちゃいけないからね」と私のシャツを胸まで上げて脇の下まで拭き、スカートとパンツを降ろして脚の間にタオルを入れてきた。そして乾いたかどうか確認してあげると言って、私の身体を撫でた。くすぐったかったので私が身を捩って笑ってしまったら、おじさんも笑って「分団からはぐれたってばれたら怒られちゃうからね」とお母さんに内緒にしておくように言われたので、私は誰にも言わなかった。
何も知らなかった私にはただの夏の一日でしかなかった。しかし先生の話で性を知ったとき、とうの昔に私の身体は穢れてしまっていたのだと知った。これからどんなに正しく生きたとしても、すでに汚れてしまっている私は一生許されることはない。全身の皮膚を剥がしてしまいたかった。
その日を境に世界は一変し、私は絶望の淵に沈んだ。ある朝新聞で、収賄容疑で失脚した政治家の死亡記事を見た。メディアを避けて籠もっていたホテルで首を吊ったらしい。登校の道すがら、宙に視線を泳がせ想像した。失望の底で首に掛かる体重を彼はどんな気持ちで感じたのだろう。そんなことを考えると、悪い奴だけどもう許されてもいいんじゃないかと思えた。すると私の体を染めていた汚辱も、少し薄まった気がした。それ以来、嫌な奴がいたらそいつが苦しんで死ぬ姿を想像するようになった。
病棟実習で実際に入院患者を担当するようになると、患者のなかにはどうしようもないクズ人間もいるのがわかった。糖尿病の悪化で緊急入院したのに、隠れてあんパンを食べていた患者は、私に見つかると延々と言い訳を並べ立てた。私は宙を見つめながら、足が壊死して寝たきりになった末に孤独死する患者を思い浮かべて聞き流した。後日主治医から「こんなに親身に聞いてもらったのは初めて」と涙を流していたと聞かされた。
私はその後も数々の悪人を想像のなかで殺し、念願の医者になった。研修先は忙しい病院で朝から晩まで休む間もなかったが、その分死に行く患者を診る機会も多く、私の空想の幅も確実に広がっていった。
内科研修も三ヵ月ほど経ち、事実上の主治医として治療にあたるようになったころ、緊急入院した高齢男性の担当になった。患者は尿路感染からの敗血症性ショックで呼吸器を装着されていた。鎮静剤で眠らされているが、耳元に口を近付け大きな声で自己紹介をした。そして首を傾げて患者の顔を正面から見た瞬間、息を飲んだ。脚が震え心臓が喉を打ちつける。目を閉じて口から管が伸びていて、無精髭が生えて随分老けていたが、見紛うはずもない。黄色い旗のおじさんだ。カルテを確認するとやはり住所が実家の近くだった。
よろめきながらも目を閉じ腹に力を入れてどうにか呼吸を保とうとした。頭のなかではあらゆる残酷な死が錯綜している。鈍器で頭を粉砕する。足から一センチずつ鋸で切断する、宙吊りにしてゆっくりと溶鉱炉に浸ける。絶望の嘆きと断末魔の叫びが耳の奥に鳴り響く。大丈夫、私は大丈夫。最も悲惨な死を想像すれば、私はこいつを許せる、きっと許せる、許せるのか。
深夜、そっと患者の傍に立って見下ろした。
「許せるかよ」小さく呟いて宙を仰ぐと、私はモニターのアラーム停止ボタンを押した。
<了>
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