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平日の通勤ラッシュ。電車に乗る学生やサラリーマンの視線の先は、スマホの画面だったり新聞紙や文庫本の活字だったり様々だ。
電車の揺れが眠気を誘う。自宅から最寄り駅までの間にじんわり汗ばんだ肌をクーラーの冷風が撫でる。それでも、人口密度の高いこの空間では蒸し暑さから逃れることはできない。ワイシャツの第三ボタンあたりを掴んで仰いでみるものの、涼しさを感じられるのは一瞬だ。
ふと窓に反射して映った自分の顔が視界に入り、思わずため息が出る。最近しわが増えてきた。白髪も家で自分で染めることに限界を感じ始めている。社会人になって32年、転職どころか異動も一度もない。32年間毎日同じ電車に乗り、同じ職場に向かう。大きな変化もなく単調に進んでいく生活だが、来年は長女が社会人に、次女が大学生になり我が家の大きな節目の年になる。二人の娘の成長は、時々こうして老化という現実を突き付けてくるのだ。
次女の美樹は半年後の大学入試に向けて一日中勉強し、家でもほとんど口を利かなくなった。もともと明るくひょうきんな性格で末っ子気質だったのだが、やっぱり受験のストレスというのはそう簡単に排除できないらしい。長女の由樹は附属の高校に通っていたので大学受験は経験しなかった。父親をやって23年目だが、受験生の親というのはどうあるべきなのか、未だに答えが定まらない。
「明大前」と言うアナウンスが車内に響いた。ドアが開くのと同時にたくさんの人々が出入りする。奥に進み手すりに掴まると、隣に70歳くらいの小柄なお年寄りが立っていた。昔話に出てきそうな上品で優しそうな「おばあさん」だった。両手に二つずつ大きな紙袋を提げている。あまりに重そうだったので
「お荷物、網棚にあげましょうか?」
と声をかけた。
「ああ、ありがたいです」
お年寄りはそう言って荷物を差し出した。紙袋の中には深緑色の包装紙に包まれた箱がいくつか入っていた。中元だろうか。この通勤ラッシュの時間帯にわざわざ電車に乗ってまで行くなんて、よほど急いでいるのだろうか。
そんなことを考えながら紙袋を網棚の上に乗せると、お年寄りは
「ありがとうございます、ありがとうございます」
と何度も頭を下げた。
「いえいえ、お気になさらずに」
そう言って再び視線を窓の方へ向けると、目の前の席に女子高生が座っていたことに気づいた。暑そうな紺色のベストに赤いチェックのスカートを身につけ、単語帳に赤シートを重ねて見ていた。制服も髪の長さも違うけれど、勉強している姿がどことなく美樹に似ていた。受験生なのだろう。単語帳にはカラフルな付箋がたくさん貼ってあり、その量は単語帳の分厚さを超えていた。
美樹と重ねてしまうと尚更勉強の邪魔をするのは気が引けたが、思い切って声をかけることにした。
「すみません。勉強中申し訳ないんですが、こちらのお年寄りに席を譲っていただけませんか」
「あら、いいのよ、私は元気なんで」
お年寄りは腰に手を当て胸を張って笑顔を見せた。「いえ、でも」と言うと、しばらく困惑していた女子高生が荷物をまとめて立ち上がり、「どうぞ」と快く席を譲ってくれた。
「あら、いいの?ごめんなさいね」
「いいえ。こちらこそ気付かなくてすみません」
女子高生の声はハキハキしていたが大人っぽさもあった。そしてこちらに顔を向け、笑顔で軽く会釈をした。会釈を返し、良くできた子だな、と思いながら外の景色に視線を戻した。
「新宿」とアナウンスが響く。お年寄りに席を譲ってからも黙々と単語を覚えていた女子高生は、大きなカバンを持って電車を降りていった。
電車のドアに向かう彼女を見たとき、はっとした。
女子高生は、左足を引きずるようにして歩いていたのだ。左肩にカバンをかけ、右足だけで全体重を支えて。
たった15分の出来事だ。なんの変哲もない日常に起きた小さな出来事に過ぎない。ただ、あの時「どうぞ」と言って席を譲ってくれた彼女の笑顔が脳裏に焼き付いて離れないのだった。
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