馬鹿

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馬鹿

「水原先生は、馬鹿だった。だって俺みたいなやつにまで、馬鹿みたいに優しいんだ。いつも保健室で、学校にすらとけ込めないようなやつらと静かに話をしていた。あいつらはクソッタレだ。きっと絵日記だって書けないに決まってる。要はさ、選べないんだよ。十二色あっても、二十四色あっても、空の色さえ決められないんだ。もちろん、自分の色もな。だから教室に居場所がない〜なんて言い出すんだよ。ちゃんとそこに椅子があるのにさ。 俺は、椅子がなかった。隠されていたんだ、いつも。つまんねえ言葉を借りればイジメられていたんだ。ボスみたいなやつにさ、ちょっと喧嘩ふっかけただけでクラス単位でハブだ。 別に辛くはなかったさ、これは強がりじゃない。だってあんな化け物たちと仲良しごっこする方が虫唾が走るね。俺にはみんなみんな化け物にしか見えない。人の皮をかぶった魑魅魍魎さ。噂を伝言ゲームして、影で後ろ指をさして。獣じゃないよ、化け物だよ。獣ってのはもっと秩序があるもんだ。たしかに猿にもヒエラルキーはあるけど、あいつらは誰かをバイ菌扱いしたりはしない。みんな猿以下なんだ。 俺が腐っちゃったのは家庭環境のせいだって言ってるやつもいるけど、それはどうなんだろうな。だって俺一度も怒鳴られたこともないし、叩かれたことだってない。家ではイジメられてなかったよ。ただ、逆に会話も無かったけどね。父親は仕事でほとんど居なかったし、母親は鬱気味でずっと布団の中だ。会話した記憶は、そうだな、随分前に俺が癇癪をおこして泣きわめいていた時だな。その日はたまたま父親がいて、俺は誕生日だったんだ。でもケーキも祝いの言葉もなかった。だからなんだか生まれてきたのが虚しくなっちゃってさ、わーわー泣きわめいてたんだよ。そしたら父親がさ、「知っているか?ミキ。ヒステリーって言葉は、元々子宮から来ているんだよ」って言って笑ったんだ。虫でも見るような目で。俺はその日から「わたし」って言うのをやめた。自分の中に子宮が入っているのが全ての悪の根源に思えたんだ。ずっと、怒りがあった。訳の分からない怒りだった。物心ついた時からだ。だから俺はずっとずっと問題児だった。世界と折り合いがつかなかった。幼稚園の時には蟻をたくさん殺したよ。羨ましかったんだ、行列をつくっているさまがさ、まるで何かに導かれているようで。俺にはなにも導いてくれるものがなかったから。夢もなかったし、希望もなかった。ただ漠然とニュースは世紀末をずっと叫んでいたし、俺もすぐに死ぬだろうと思ってたんだよ。 話が逸れたな。水原先生だ。水原先生は優しかったよ。俺が素手で学校の窓ガラスを割った時、一番に駆けつけたと思えば、「怪我はない!?」って心配しやがった。普通は怒るのが先だろ。でもあいつは一言も怒らなかったよ。ただ俺のちょっと血が滲んだ右手を震える手で握ってくれた。ああ、こんな人もいるんだな、とぼんやりと思っていた。この人が母親だったら、俺はどうなっていたかな、とも。 それから怒りに、いや、子宮に振り回された俺は次から次へと問題を起こすようになった。黒板のチョークを全部焼却炉に投げ入れた。隠されていた椅子を、伐採用に置いてあったチェーンソーで真っ二つにした。美術室の彫刻を投げ捨てて割った。とにかく物という物は、壊したね。その度に水原先生は俺に怪我がないか心配したり、俺にカウンセリングをしようとしてきた。「きっとあなたは、とても傷ついてきたんだわ」とあの人は言った。俺にはそんな自覚はなかった。ただ、子宮が暴れてるだけだ。母親の、母親と同じ臓器が。ああ、俺は母親には叩かれたことがあったな。一度だけ、イジメの一環で駄菓子屋で万引きをさせられたんだ。いつも寝ている母親が、その時は叩いてくれた。あたたかかった。俺が傍によるだけで不機嫌そうに顔を背けるのに、その時は泣きながら叩いてくれた。 また、話が脱線してしまった。水原先生だ。水原先生は確かに俺を一度だけ叩いたよ。それは学校で飼っているウサギを殺した時だった。物を壊すのじゃ足らなくなった俺は、ついに生き物に手をかけたんだ。びっくりするくらいウサギは叫んだよ。家から持ち出した果物ナイフで、何度も何度も刺した。叫んだのは最初だけで、あとは臓物を零しながら痙攣していたよ。それを見た水原先生は、俺を思いっきり引っぱたいた。それから、わっと泣き崩れて俺を抱きしめたんだ。その時、一瞬、俺は子宮から解放されたような気がした。気付けば俺も泣いていた。ただ、空が高く青かったのを今でも覚えている。空気が、澄んでいた。血の匂いと、水原先生のぬるい体温が、俺を優しく包み込んでいた。 それが、忘れられなかったんだ。本当に、何回夜を越えても、忘れられなかったんだ。夢にもでてきた。夢のなかで何度も何度も、俺は水原先生に叩かれたんだ。だから俺は、水原先生を殺した。ウサギに使った果物ナイフで、何度も腹を刺した。水原先生はガアッと叫んでから、がくがくと崩れ落ちた。俺は、馬鹿だった。期待していたんだ。もう一度叩かれることを。いや、叩くよりもっと酷い、俺は、俺を、水原先生が殺してくれるような幻想を持っていた。だから階段の上で殺したんだ。最後の力を振り絞れば、俺を突き飛ばせるはずだ。でも先生はそれをしなかった。大粒の涙をボロボロ零しながら、「すくえなくて」「ごめんね」と言ったんだ。叩きも、殺しも、しなかった。救えなくて?どういう意味だったんだろう。俺はたしかに救われたのに。あの日、ウサギを殺した日、叩かれた日、救われたのに。ねえ、なんでなんだよ。俺はどうすれば良かったんだよ。なあ、なあ、なあ」 神父は俺の長話をずっと聴いていた。でも、叩いても抱きしめてもくれなかった。ただひとつ頷いて、病室を出ていってしまった。 俺は、どうしたら、もう一度子宮から自由になれるんだろう。そうか、子宮をとれば良いのか。精神病院を出たら、俺は自分で子宮を抉りとろう。そうしたら、母親は俺を叩いてくれるだろうか。 抱きしめて、くれるだろうか。
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