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いちのさん 岸田森似の大男
手を繋いだ男女が地下鉄駅までの商店街を駆けてゆく。いつもの登校風景だ。
「朝っぱらから仲いいねー」
通行人のひやかしが、うざい。
〆子はそんなのはまるで眼中にないかの如く、
「電車乗り遅れんぞ」
俺は心の声の罵詈雑言に耐えながら、俺より前を行く〆子に引きずられ、息を切らせて走り切る。
地下鉄の入り口から、階段を駆け下り、改札を抜けてゴール。
ぷしゅー。「発車します」
間に合った。よかった。この電車に乗れれば学校に間に合う。
乗るのはいつもの定位置だ。最後尾の車両の一番後ろの端っこの隅。
ここ以外は〆子が嫌がって乗ってくれない。
駅を2つばかり過ぎたころ、〆子が突然俺の手を強く握りしめた。
小学生のとき〆子は何かで緊張すると、俺の手をぎゅっと握ってそこから動かなくなった。
そうなると〆子の心はノジュールのように固まって、心の声も聞こえなくなり、
俺はその場で立ちすくむしかなかった。
今の〆子の握り方はその時と同じだった。
〆子を見ると車両の前方を凝視していた。俺は視線の先を追った。
そこには異様に背が高い人が立っていた。
頭は網棚より上にあって、黒いハンチング帽を目深にかぶり、
古い映画に出てくるドラキュラマントでその身を包んでいた。
日常空間でそこだけ異世界の扉が開いたようになっている。
その人はこちらを向いているが、
俺を見ているのか、〆子を見てるのかは遠すぎてわからない。
〆子の手が汗ばんで小刻みに震えているのが分かる。
なぜか出がけの母さんの言葉が脳裏に浮かぶ。
「時間には十分気を付けるんだよ」
時間。そう、俺はずっと時間を気にしてきた。
決して時間に対して受け身にならないように、前向きに生きてきた。
どういうことかは今は思い出せなけど。
ギギーキー!ギギー!
急ブレーキだ。
俺は、転げそうになる〆子を必死で掴んで引き寄せると、近くの手すりにしがみついた。
人が前方に押しやられてゆく。叫び声が上がる。
電車が止まった。車内灯が消えて暗闇になった。
騒然となった車内に非常灯が点り世界が真っ赤になった。
車内を見回して俺は我が目を疑った。
電車の前方が明らかに下方に落ちて見えたからだ。
それが俺の目の錯覚でないのは、周りの人たちが、つり革や手すりにぶらさっがって、そっちに落ちないように踏ん張っているからだった。
「わー」
おじさんが落ちて行った。
「きゃー」
次は女子学生。
みな必死に辺りのものにしがみついているが、長くはもたない。
どんどん落ちて行く。
俺も自分だけでも大変なのに、〆子の手を繋ぎ止めてやらねばならない。
必死だった。
すぐ目の前でつり革につかまっていた若い男が力尽き落ちて行った。
落ちた先で、
ぷちゅ。
といういやな音がして黒い水しぶきが上がった。
前方が真っ黒い液体で満たされているのが見えた。
その中に落ちた人は黒い液体に溶けてしまったように二度と浮き上がって来ないようだ。
あの中に落ちたらおしまいだ。それだけははっきりと分かった。
さらによく見るとその黒汁の中になにかが蠢いている。
人のようにもみえるが爬虫類のようでもある全身が真っ黒な気味の悪い生き物。
でも、もうそろ俺も限界だった。
俺の腕はすでに〆子の体重を支えていられそうになかった。
汗のせいで〆子の手が俺の手をすり抜けようとしたその時、
がっくん!
世界の背骨が外れるような音がした。
再び大きく揺れる車両。人の叫び声。
非常灯が切れて一旦真っ暗になったかと思ったら再び赤くなった。
気付くと、〆子の重さを腕に感じなくなっていた。しかし手は繋いだままだ。
車内を見渡すと電車の傾きがもとに戻っていたのだった。
黒い生き物も黒汁も嘘のように無くなり、急ブレーキで混乱した車内というよくある風景に変わっていた。
ただ、
俺の隣に誰かがいた。大きな気配を感じる。
ゆっくり横を向くとあの黒いマントがあった。
頭上で、海藻のように濡れた髪が額に垂れ炯炯と光る瞳が俺を見ていた。
その顔貌、まるで昭和の怪優、岸田森のようだ。
そしてウーハーを利かせた低音が響いてきた。
「だから言ったろう。私の言うことを聞かぬからだ」
知り合いでもないのに親密な言葉。けれど脈絡のない内容。以前にもこういう輩に出合ったことがある。
ある時、駅の改札を出てすぐ、いきなり後ろからかかとを蹴られた。
ぶつかったのではないのは、それが3回続いたからだ。
振り返ると若い男が立っていて
「そういうの、俺が一番嫌いなの知ってるだろ」
と言った。まったく知らない男で、話の内容もわけがわからず、聞き返そうとしたら、目が虚ろだった。
そのため、そいつのことは相手にせずそこから立ち去ったのだった。
でも、この岸田森にはそれとは違う何かがあった。
ガタン。ガガー。
普通の車内灯に切り替わって電車が動きした。
明るくなって一瞬目がくらんだが、すぐに車内の様子が見えだした。
乗客はいつもの通ポジに位置直しをしている最中だった。
〆子はまだ小さく震えていた。
「大丈夫?」
「うん」
心の声が返ってきた。心配はなさそうだ。
大男は? 恐る恐る反対を振り返る。
しかし、そこにいたのは岸田森似の大男ではなく脂ぎった顔をした会社員風の男だった。
車内を見渡し、岸田森を探したが分からなかった。
それよりも、さっきの黒い液体や黒い生き物は何だったのか。
突然悪夢の中に放り込まれたような、気味のわるい感覚がいつまでもぬぐえなかった。
「この車両は一旦車庫にはいりますので、お客様は次の駅で下車してください」
車内アナウンスが流れた。
俺と〆子は次の駅で下車して、電車を待った。
〆子が反対のホームをまっすぐ向いたまま心の声で言った。
「ショウのママのタロット占い、今日は何が出た?」
何かと思ったらいつもの質問だ。〆子は意外と母さんのタロット占いを気にしていて、毎朝それを俺に聞いてくる。
「運命の輪だった」
「そうだったんだ」
しばしの沈黙。
「なんか始まりそうだね」
と言った。俺はタロットなど興味がなかったから、
この時〆子が言ったことを全く理解できていず、聞き流してしまった。
次の電車はなかなか来なかった。
俺が見た悪夢の光景を〆子も見たのか聞いてみたかった。
しかし、〆子はずっと沈黙したままだ。
電車が来た。風圧でよろけそうになる中、〆子が珍しく俺の目を見て、
「あの人、スタウロライトつけてたね」
と、気になることを言った。
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ここまで読んでいただき、本当にありがとうございました。
だれーーー? 岸田森って、だれーーー? の人。
はい、あなたは正常です。岸田今日子の従弟だそうです。
既に鬼籍に入って久しい人です。
『血を吸う薔薇』という映画で、吸血鬼を演じてまして、
ジョン・ランディスにべた褒めされてた人です。
曰く、
「岸田森の外見や演技はドラキュラそのものじゃないか」
2020年09月30日、改修しいました。
ただの急ブレーキだったのを、悪夢的な場面に変えました。
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takerunjp
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