いつか、このあとがきを。

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 なんで今ここにいるのか、僕には分からなかった。そんなことに頭を巡らせている余裕なんて僕らの暮らしにはなかったし、考えたってどうしようもないことを考えて腹が空くのは癪だったから考えないようにしていた。  視界の隅に蚊が飛んでいた。なんだってこんな生きづらい部屋に飛んできたのか。訊いてみたところで、答えは貰えなかった。窓を少し開け、右手で彼を払ってやると、案外素直に彼は闇夜に飛んで消えた。  彼は望んでここにいたわけではないのかもしれない。迷い込んで出口を失っていただけなのかもしれないし、或いは、望んで来てみたはいいが、期待していたような場所ではなかったのかもしれない。どちらにせよ、それは彼自身にしか分からない。  書けない。僕がこのところ抱えている問題は、結局この四文字に尽きる。文字自体は書いている。しかし、文章を幾つ連ねても、それが金にならなければ意味がない。売れるという確信を持った小説が、僕には書けずにいた。  小説を書くという行為は、人生を擦り減らすことと同義だ。人生が満ち満ちているやつは苦もなく上手い小説を書けるが、肝心のそれが欠乏している人間が同じものを書こうとすると、それこそ気が遠くなるような推敲の後にやっと手がかりが見つかるような途方のなさがあるのだ。  救われない。こんなに救われないものが、この世界に二つと存在するだろうか。 「今度はエッセイでも書くの?」  キーボードから手を離すと同時に、耳元で桜がぼそっと呟く。彼女にとっては単純な疑問符なのだろうが、今の僕にとっては、そんなものを書いている余裕があるのか、と責め立てられているように思えてしまう。 「こんなの、ただの日記だよ」  つい突き放すような言い方をした。しかし、彼女は毎日机の前で頭を抱える僕の姿を見て何も思わないのだろうか。いや、思わないわけはない。  東京に住まなくても、小説は書けるよ。彼女が口癖のように言っていた言葉を、最近聞かなくなった。それはきっと、その言葉が彼女の内側に染み込んでしまったからだろう。言ったところで解消しないものとして、消化されないまま彼女の中に今でも残留しているのだ。けれど、僕にはそれを消してあげることは出来ない。まだ僕にはこの街を去る理由がないのだから。何も生み出せないままこの街に負けてしまうのが、僕にはどうしても許せなかった。
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