いつか、このあとがきを。

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 既に息のあがった体で階段を一段飛ばしで駆け上がり、古いアパートのボロい扉を開けようとしたところで、ドアノブに鍵がかかっていることに気づく。まだ桜は帰ってなかったのか。僕は謎の安堵感から、一呼吸大きく吸って吐いた。  ギイ、と音を立てて扉を開けると、そこに桜はいなかった。鍵が閉まっていたのだから、いないのは当たり前だろ。そう言い聞かせるような自分の声を、しかし僕は否定する。  ただ彼女自身がいなかっただけではない。部屋からは、桜がいた痕跡が全て消え去っていたのだ。  僕はケーキの入った袋をその場に落として、部屋中のありとあらゆる物をひっくり返して回る。綺麗に畳まれた布団にも、洗濯物にも、タンスにも、机にも棚にも、歯ブラシ一本さえ、彼女の匂いのするものは残されていなかった。  ただ一つだけ、彼女の気配を色濃く感じる光景があった。僕の作業用のパソコン机だけが、明らかに朝よりも綺麗に片付けられていたのだ。頭の中が白紙にかえりそうなほど混乱していた僕は、藁にも縋る思いでキーボードを叩く。暗転していた画面に明かりが灯り、パスコードを打とうとしたところで僕の指は止まった。  『お使いのパスコードにロックがかかりました。ただちにパスコードを変更してください』どこか命令口調の文章が、画面に映し出されていた。まるで酔いが覚めるみたいに、僕の乱れきった頭の中が静かになっていく。  この表示が出るということは、つまり誰かが何度もログインに失敗したということで、それをした誰かというのは、今僕が散々に探している彼女しかありえない。冷たい、そうふと思った。手元を見ると、キーボードの上に点々と水滴が出来ていた。  水滴の正体に考えを巡らせる前に、僕はキーボード下から何か白い紙が折り畳まれて挟まっているのを見つけた。ゆっくりと、僕はそれを引っ張り出して、一度瞬きをしてから開いた。 「君のからっぽに、ちゃんと何かがあてがわれる日が来ますように」  目で文字を追っているだけなのに、桜の声が耳元でしたような気がした。  胸のどこか、手の届かないどこかに水が溜まっていくような感覚があった。  僕は手の中の、頼りない二つ折りの紙を心臓のところにあてて、肌と一緒になってしまいそうなくらいに押し付けた。悲しさが、寂しさが、虚しさが、僕をそうさせた。乾いた心に、青い青い液体が染み込んで、空の器を満たして、それでも足りなくて水は両の目から溢れ出す。  泣き出してしまう。喚き散らして、桜との日々を喪失した現実を受け入れる準備を、体がしてしまう。そんな確信があった。  だから僕は、血の味がするまで唇を噛んで、手の中の紙を机の隅に置いて、震える体を奮い立たせて、まだ濡れているキーボードを鳴らした。  綴った。僕の無力を、後悔を、虚無を、失望を、渇望を、野望を、喪失を、妥協を、逃避を、日々を。  涙が流れ落ちないように、時たま天井を穴が空くほど睨んだ。そしてまた書いて、睨んで、書いた。文字を重ねることに比べたら、寝食なんて本当にどうでもよかった。いつも隣で変わらず咲いていた彼女の話を書いた。初めて、何を書いたらいいか分からずに俯くことなく小説を書き続けた。  三日経っても、この部屋には僕だけしか存在しない。それでも目の前の文字列の中に、確かに彼女は生きていた。今もこちらを向いて、下手くそに口角を上げて笑っている。久しぶりに目が合ったね、そんなことを言って笑っている。  小説は終盤にさしかかり、同時に僕の体力も尽きるのだろうと思った。でも少しも手を止めたいとは思えなくて、小説の中の彼女も、自分の手荷物をまとめる手をとめなかった。桜は出ていく直前、僕のパソコンを開こうとした。彼女が何を見たかったのか、何を見れずに出ていったのか、僕はここまで書いてからようやくわかった。 「この街で小説家になってよ、絶対に」  顎に伝う涙を袖口で力強く拭きながら、彼女は僕がいない部屋に向かって、こうして小説を書く僕に向かって、そう言い残した。  思い出した。僕の小説を初めて好きと言ってくれたのは、桜だった。  僕は書く。彼女が消えたこの部屋で、この部屋を出ていった彼女のことを想いながら。  それがこの街にしてやれる、僕の唯一の存在証明なのだから。  好きだよ桜、いつまでも。  僕は、今しがた書き終えた小説に、今語るには遅すぎるあとがきを添えた。
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