いつか、このあとがきを。

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 桜と出会ったのは、大学二年の秋頃だった。確か同期の何人かで行われた飲み会か何かで、お互いに友人の付き添いで来ていたから、その場に馴染めないもの同士で話をしたのが始まりだった。桜は一言で言ってしまえば、どこにでもいそうな子だった。けれど、僕の彼女への印象は、交際をしている中で少し変わった。彼女はどこにでもいそうな子ではなく、どんな場所にも馴染む子だった。僕のような日陰の傍で枯れることなく三年以上も咲き続けているのだから、それだけは間違いないだろう。  東京という街を、僕は心の底から嫌っている。人の金とそれに追随する血と心を吸って、当たり前のように回るこの街が、嫌いだ。眩しいだけで、自身の強欲さを曖昧にぼやけさせているこの街を、それでも僕はまだ手放せないでいる。  特に何を書くわけでもなくパソコンの画面を睨んでいると、部屋の明かりが落ちた。ふと画面端の時間を見る。気づくともう、日が変わりそうになっていた。後ろの方で桜が布団を敷く音が聞こえる。  執筆の時間を取るために週三でしかバイトに行っていない僕とは違い、桜は殆ど毎日、幾つかのアルバイトを掛け持ちすることで、この部屋の家賃と二人分の食費を稼いでいた。少し前、定職につかないのかと訊くと、「だって、ずっとこの街にいるとは限らないから。それに、楽なんだよね。一つの場所に縛られてない方がさ」そんなふうに言っていた。その日の晩飯は、酷く喉を通りづらかった。  暗くなった部屋で、無機質な光を浴びながらキーボードを叩く。僕は何を書けばいいのか、何を書けば救われるのか、何を書けば、この街を離れられるのか。  そもそもなぜ僕が地元を遠く離れ、この東京に来たのか。思い返すと大した理由はないような気がする。この街に来れば沢山の刺激物が僕の感性を磨いてくれて、新しい出会いや目新しい風景が僕の希薄な人生を豊かにしてくれる。そんな妄想紛いな考えだった。  大学四年の頃、ろくに小説も書かないまま大学生活を浪費し、上京することだけを考えていた僕は、当然桜との交際関係を解消しようと考えていた。不確定な自分の行先へ彼女を巻き込むだけの胆力が、当時の僕には一欠片もなかったからだ。ところが、桜は僕が東京に行こうと思うという旨を伝えた瞬間にそれを許諾し、自分も受けようとしていた企業面接を全て白紙に返して僕に付いてくると言ったのだ。  正直、意味が分からなかった。彼女が僕といることで得られるメリットは皆無に等しいのだから。何度か説得を重ねたが、彼女の意思は揺らがなかった。「そんなに止めるなら、ここで振ってよ」彼女のその言葉で、僕もそれ以上止めるのをやめた。桜がそんなに強情な人間だということを、僕はその時に初めて知った。  高校生の時も、僕は恋人を作ったことがあった。高校二年と、三年の時に、ちょうど一年ずつの交際期間で別れることになったが、二人の女性と僕は付き合っていた。二人とも少し派手なものが好きで、友達が多かった。ただ、彼女たちは他の同級生の女子とも似ていて、付き合っているということ以外に、彼女達は僕にとって何一つ特別な存在ではなかった。現に、彼女達の名前を僕は思い出せない。  僕は人を好きになるということが、今ひとつピンとこない。恋人になればその人間は自分にとって特別な存在になるし、その辺を歩いている中年のサラリーマンだって、何度か会話を交わしてしまえば、それは知り合いという名前のついた関係で、赤の他人ではなくなる。僕の人生は他人に対する名称が先に来て、それに合った対応をすることで成り立ってきた。成り立ってしまっていた。  家族だから、友人だから、教師だから、顔馴染みだから、先輩だから、後輩だから、恋人だから。いつだって『だから』が先行して、僕は与えられた役割をこなすだけなのだ。だから僕の人生は誰だってなぞることができるし、誰が見たってつまらない。  そんな僕は、そんな僕だからこそ、運命的な出会いというものに飢えていた。それこそが、この街に来た大きな理由でもある。その上で考えると、やはり僕は桜を東京に連れてくるべきではなかったのだろうとつくづく思う。  恋人がいると、それだけで出会いの幅というものは狭まってしまう。別に桜に不満があるわけじゃない。本能的に、抗えないほど誰かに惹かれるという経験をしないまま歳を重ねていくことが、なんだかすごく勿体ないことのように思えるだけだ。この頃、桜と手を繋いで歩いていても、目まぐるしく通り過ぎる人混みの中から、僕を攫うような視線を誰かがくれやしないかと探している自分がいる。乾いている。そんなふうに感じることが、あまりにも多かった。  このままでは桜と過ごす時間をいつか、こんなものはただの停滞だと吐き捨ててしまいそうで、そんな自分が恐ろしくなって、結果的に彼女の事をなるべく遠ざけたいと考えるようになった。自分が汚れないために、彼女を見ることを放棄したのだ。  いつ見放されてもおかしくないな。そんなふうに、退廃的な思考になったふりをしてみる。でも僕は知っていた。桜は僕を見放さない。ずっと何かの傍で咲き続けるというのが、彼女という花の本懐なのだから。咲く場所さえあれば、彼女はずっとそこで生きることを選ぶのだろう。ただ生きているだけで完遂する目的を抱けるなんて、なんて幸せなのだろう。静かな寝息をたてる桜の顔を見下ろして、僕は彼女の人間性をどこか疎ましく思う。  誰にも認められなくて、彼女は平気なのだろうか。自分の生きた証を残すために何もしないで平気で笑っていられる人間とは、どういう脳みその作りなのだろうか。 「……疲れた」  空回りを始めた頭を硬い枕に放って、眠る彼女を背に僕は目を閉じた。
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