いつか、このあとがきを。

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 翌朝、僕が目を覚ますと、案の定そこに桜の姿はなかった。その代わりに、小さな丸テーブルの上に朝食らしきものが用意されていた。いつもの朝、変わらない朝だった。  洗濯機の蓋を開けると、おそらく桜が洗濯機を回してから家を出たということが分かった。水を吸って重くなった洗濯物をカゴに入れて、狭いベランダに干す。太陽の光は起きたての体に優しくない。  洗濯物を干し終え、桜が作ってくれた朝食に箸をつける。桜は料理が上手だった。時々、改めてそう思い出さないと、いつか味を感じなくなってしまいそうで恐ろしかった。彼女の作る料理はわかりやすい味付けで、誰も嫌う人間はいないだろうと、そんなふうに思える味だった。  今日はアルバイトの予定を入れていなかった。その代わり、僕は珍しく外出をする予定を組んでいた。大したことではない。ただ二つばかり電車を乗り継いで、街の灯りの届かない田舎に足を運ぶだけの簡素な予定だ。  僕は畳んである服の一番上を適当に手に取って、一思いに袖を通した。一応、起き抜けの服で出掛けないという人間性だけは手放さないようにするためだ。歯を磨き、後頭部に忌々しくついた寝癖を水で濡らした手のひらでなんとか矯正して、最近右耳の聞こえが悪いイヤホンを深々と刺して外に出た。  東京という町の中にも、山々に囲まれた田舎が少なからず存在する。考えてみれば当然のこと、あれだけの大都市が吐き出す二酸化炭素を浄化するには、控えめに植え付けられているだけの観葉植物では荷が重い。今僕が向かっているのは、この罪深い街の浄化槽といえるだろう。  田舎に足を運ぶために電車を乗り継ぐもの好きは少ないのか、目当ての駅で降車したのは僕だけだった。  本物の田舎の風景、というものを実際に見たことがある僕からすると、目の前の光景はまだまだ都会の残り香の残るものだった。しかしそれでも、浅く息をするだけで錆び付いた僕の体内を段違いに澄んだ空気が循環していくのを感じる。  こんなふうに擬似的な田舎の匂いを摂取しないと、僕という人間なんてすぐ、あの忙しない街に呑み込まれてしまうのだ。  その日、僕は太陽が登っている間ずっと、東京の外れの田舎道をひたすら歩き回った。じんじんと唸る暑さから逃げるように滝壺の傍で寝転び、幾重にも重なった木の葉を仲介にして太陽を睨んだ。住宅地の中心に小型スーパーを見つけて、子供の時以来に食べるアイスキャンディを片手に来た道を戻った。  小説は一文字も書かなかった。というより、書こうと思えなかった。書くべきではないと、そんなふうに誰かから明言されているような気がしていた。ともあれ、今日という日は僕の体の中に溜まった毒素を吐き出すにはとても充実していた。  ただ一つ失敗があるとすれば、僕の体から抜けて出たのが毒素以外にもいくつか存在するということだ。  駅の近くにあったケーキ屋で、売れ残っていたショートケーキが安くなっていたので、桜への土産にそれを買った。 「暑いのでお気をつけください」  そう言って女性の店員はたった二切れのケーキの為に沢山の保冷剤を一緒に入れて、加えて涼し気な笑顔をくれた。そのせいで、何をどう気をつけようか、僕は電車を待つ間考えるはめになった。するとその間に電車が来たので、僕は右手に提げた袋を体で守るようにして乗り込んでみた。  すっかり灰色に染まった風景を車窓から眺めて、僕はふと思う。  もう、小説家になるのを諦めてしまおうか。地元に帰って、それなりの職に就いて、のどかな街で平穏な営みを築くことこそ、幸せなのではないだろうか。そんな考えが浮かんで、それを否定する声はひどく小さく感じた。  家に帰ったら、桜に聞いてみようと思った。きっと賛成してくれるだろう。  のんびりしていると決意が揺らいでしまいそうで、僕はケーキを提げていることを忘れて駆け足で帰った。
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