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本来なら、外来診療は十二時で終了だ。
だが、院長の橘匡久の場合、時間オーバーはいつものことだった。
外来が終わった後、彼は一時からの病棟回診のために、昼食前に受け持ちの病棟に立ち寄って、午前中の記録に目を通す。
そんなことをしている間に、もう十二時二十分になっている。
食堂に行こうとして、受付の前の待合室を通る。
その時、ふだんはこの時間、誰もいないはずの待合室に、人影を見つけた。
「あれ。大橋さん?」
匡久は不思議に思って、その人影に近づいた。
すると向こうも匡久に気づき、好々爺然とした優しい笑顔を向ける。
それは、どこかほっとしたような表情でもあった。
老人は立ち上がり、軽く会釈をする。
匡久も礼をして、彼に近づいていく。
「こんにちは。お久しぶりで」
「どうも、若先生。入院中はお世話になりました」
老人は深々と頭を下げる。
父親の役職を引き継ぎ、匡久が院長になってもうすぐ三年になるが、患者からの呼称はあいかわらず「若先生」か「匡久先生」だ。
「橘先生」という呼称はいまだに、理事長となって医師の仕事をほぼ引退した父親の征司を指すのだが、その父親のことを「大先生」と呼ぶ人もいる。
「いえ。いたりませんで」
匡久も頭を下げた。
老人――大橋貞義さんは、以前、匡久の患者だった大橋頼子さんのご主人だ。
頼子さんのことは、匡久が担当する前は、長い間、征司が診ていた。
その彼女は、一年ほど前に、この病院で亡くなった。
大橋さんの家は、ここから車で三十分ほどかかる。
貞義さんは、それでも毎日奥さんの見舞いに来て、身の回りの世話をしていた、献身的なご主人だった。
だが貞義さん自身は、橘病院の患者ではない。
「今日は? どうかされましたか」
「いえ……どうというわけではないんだが」
貞義さんは、はにかんだように笑う。
「何となく、先生に会いたくてね」
その眼が寂しげだったから、何かあったのかと、匡久は勧められるまま、貞義さんの横に座る。
「頼子がいなくなって、なんだかすることがなくなっちゃったというか。
毎日、何をしていいのかわからなくて」
「そうですか」
頼子さんは長い間、介護施設と橘病院の間で、入退院を繰り返す生活をしていた。
橘病院には基本的に、積極的治療の段階の患者は来ない。
自然に死にたい、と頼子さんはいつも言っていた。
ここには、彼女に似た人が多い。
病気を治して退院を目指すというより、看取りのためにあるような病院だ。
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