夏、僕たちの忘れ形見

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夏、僕たちの忘れ形見

 梅雨が帰ってきたような八月だった。  電車の窓外から漏れ入る熱気と、濡れた土の匂い。  夏も帰りかけて、台風何号だかを前にした空は暗く、褪せたコンクリートが黒く染まっている。 「着きましたね、アサトくん」  電車が減速する耳障りな音。  駅に着いて、扉が開く。むわりとした、夏の熱気。濡れそぼった土の、雨の匂い。  遠くに海が見える。 「夏見浜ですか、なんでまた唐突に?」  改札を抜けながら、夏澄に振り返る。  今日の僕は、夏澄に呼び出されて少し遠出していた。 「次は秋の物語が書きたいんです」  磁気定期で改札を抜けた夏澄が、静かに返してくる。  ネイビーブルーのスカートに、白いシャツの大人っぽいコーディネート。  古びた写真のような暗い海に、夏澄の青が浮かんでいた。 「秋なのに海?」 「もう暦上は秋です」 「いや、イメージが湧かなくて」 「海って、一番わかりやすく季節を教えてくれる気がするんですよね」  春は一番静かで、夏は楽しげ。冬は一番人を拒んでいて、けれど力強い命の声がする。  中でも秋が一番表情が豊かなんですと、夏澄は言った。 「ついでに、いろいろと綺麗なものが見れたらと思います」 「感性は大事ですもんね」  駅を出て、すぐに見えなくなった海を想像しながら頷く。  そう言われれば、父さんが元気だったころは家族でよく旅行に出た。  春の河川敷に、夏の京都。秋の滝に冬の海。  どこにいっても父さんは、メモ帳に何かを書き込んでいた。 「色が見えなくても、大丈夫ですかね」 「見ればわかります」  本当にそうだろうか?  僕はこれまで、眩暈がするほどに濃い色の海を見てきた。  父さんが死んでからは海を見たことがなかったから、記憶の底にある海は鮮やかなまま。  僕にとっての海は、半分死んでいるようなものだった。 「あっついですね」 「海が見えなくなったら、途端に暑くなりますね」 「やっぱりルックスは大事なんでしょうね、人間的に」  角の立った真夏の陽から、逃げるように僕らは日陰を歩いた。
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