夏、僕たちの忘れ形見

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 夏見浜は、ローカル線小夜電鉄「夏見浜前」から歩いて十分ほどの場所にある。  僕らの学区には海がないから、みんな夏になると遠光台高校に近いこの駅に集まる。 「まあ、もうじき着きますよ」  夏澄は何度か来ていたのか、迷う様子はない。  建物の影を縫い、何度か立ち止まって雲の形に名前をつけたあと──視界が開けた。  夏澄の言葉を思い出す。 『見ればわかります』  色なんてなくたって、海は綺麗だった。  お盆を過ぎて、クラゲが出始めた海岸に人の気配はない。  まだ夏の匂いを残した潮騒。  砕けた波に、濡れた岸壁。  海と地平を隔てた雲が楽しげに揺蕩い、目を焼く陽射しが水面で跳ね回る。 「……海だ」  当たり前の感想しか出てこなかった。 「そりゃあそうですよ」  笑いかけてくる夏澄にだって、僕は言葉を返せない。  確かに、これは海以外の何物でもない。  それでもこの海は、これまで見たどれよりも海だった。   「色なんてなくたって、海は綺麗でしょう?」  やっぱり、色は概念じゃなかった。  海の中から見上げた空は、やっぱり青なんかじゃないと思った。 「すごい、これが」  言葉は息をしていなかった。  それでも体の奥底を、何かがわしづかみにしているような感覚。  きっとこの胸の奥で暴れ出しそうになっている衝動が、感性という奴なんだ。 「来てよかったでしょう?」  小さくうなずく。  視界のほんのわずかなブレだって、今は惜しかった。 「海、来たことないんですか?」 「あります。でも、アオハル病になってからは」  初めてだった。  モノクロの海なんて古写真でしか見たことがない。  それが目の前で、ビー玉を落としたラムネのようにうねっている。  きっと本物は、何かが欠けていたって、変わらず綺麗でエネルギッシュなんだ。 「書けそうですか、私がなくても」  その時僕は、初めて夏澄を見た。  寂しげな目をした夏澄が、僕を見ている。 「やっとこっち向いてくれた」  夏澄が微笑む。  一瞬、言われたことの意味が理解できなかった。  でも次の一瞬では、目のそらし様がないレベルで、理解してしまった。 「無理ですよ。書いたこともないのに」 「君ならできますよ」 「書こうと思いませんね。夏澄と書きたいんですよ僕は」  夏澄の夢の手伝いがしたい。  けれど同時に、二人で何かを残したいとも思ってしまっている。  僕たちは本物じゃないから、どちらかが欠けたらダメなんだ。 「そっか。うん、ありがとう」  何度もうなずきながら、夏澄は淡く笑った。
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