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寄り添った身体を離したとき、私はふと思い出した。
「そうだ、紅茶」
「冷めたでしょう。淹れなおしてきますよ」
「やだ、これ飲むの」
子供みたいに駄々をこねたので、彼がビックリする。
私は付け加えた。
「もう一度やり直すための一杯でしょ? ちゃんと飲みたい」
「いつもの味になっていないかもしれません。緊張したので……」
乙川くんがふっと笑い、隣の席に腰かけた。
彼はこの一杯を用意するのに、どれくらいの不安を覚えたのだろう。
私はカップを大切に持ち、紅茶に口をつけた。それは、いままででいちばん心身に沁み渡った。
「冷めても、乙川くんが淹れてくれた紅茶は美味しい」
素直に笑いかける。
彼は真っ赤になって目を逸らし、参ったように息をついた。
「糸瀬さんがかわいすぎてつらい」
それから真剣な顔でクギを刺す。
「そういうアメショな素顔、ほかの男の前では見せないでくださいよ」
「え、えっと……はい」
「あと、わざとカップを割ったりしないように」
私はビックリする。対外的には、手を滑らせてうっかり割ったことにしていたからだ。
窺う目で見ると、乙川くんが答えた。
「あなたの考えを、有原さんたちは見透かしていましたよ。僕は正直、どう捉えるべきか悩んだんですが、彼女らに発破をかけられました」
「そうなの?」
「糸瀬さんの友人に信用してもらえてよかった。つまり、僕に隠し事をしたところでムダですからね?」
自分は知らないうちに包囲されていたらしい。
これが気のない相手だと困るけれど。
「乙川くんって意外とやり手だね」
「褒め言葉だと受け取っておきます」
そのとき、課の入り口から咳払いが聞こえた。
目を向けると、三科係長が困った表情で立っている。
「そろそろ話はまとまったかな?」
私はあわてた。そうだ、彼が戻ってくるんだった。声をかけるタイミングをはかっていたのだろうか。
冷や汗をかいていると、乙川くんが素っ気なく応じた。
「戻ってきたんですか」
「そりゃそうだ。仕事も途中だし」
「べつに係長の作業が中途半端だろうと、僕には関係ありません」
「お言葉だなぁ。回り回ってしわ寄せが来るかもしれないぞ。第一、お前以外は仕事中。邪魔なのはいったい誰だ」
なんだか険悪な空気に、私はハラハラする。
乙川くんはしれっと指摘した。
「かつては奥さんの課にいそいそと足を運んだんですって? 人のことは言えないと思います」
「いつも愛想いいくせに、僕にはたまにケンカ売るなぁ」
私はギョッとする。そんなところ、見たことも聞いたこともない。
乙川くんはなにかが引っかかっているような顔をした。
「係長には負けたくないんです。いまの時点でまったく敵わなくても」
「いまの時点で、ね。こりゃ、アドバンテージがあるからと、うかうかしていられないな」
乙川くんはすこし冷静になったらしく、相手に頭を下げた。
「生意気を言いました」
「そういう奴は嫌いじゃない。上を脅かす存在になってくれそうだ」
「僕のターゲットは係長だけです」
「おいおい、僕を追い抜いたときに行き詰まるぞ。もっと視野を広げろ」
「壮大な野心ですね」
「自分にその器はないと?」
「……分かりません」
係長は面白がる様子で肩をすくめた。
「どう進んでいくか、楽しみにしている」
乙川くんは切り替えて「はい」とうなずいた。
そしてポカンとする私を振り返り、弱ったような笑みを浮かべた。
係長がこちらに声をかける。
「糸瀬さん、終わったんだよね? じゃあ気をつけて帰って。乙川もとっとと会社を出るように」
そうして課を追い出された。
乙川くんはカップを洗うため給湯室に向かい、私はロッカールームへ行く。その途中で彼が提案した。
「どこかで夕食を取りませんか?」
「うん」
「エントランスで待ってますね」
帰る支度をした私は、乙川くんとともに会社をあとにした。
差し出された手をつないで飲食街へ向かう。私は、さっきの彼らのやり取りを思い出した。
「乙川くんって係長とあまり仲良くなかったの?」
「あの人はよくしてくれますよ。僕が一方的にライバル視してるだけです」
それはもしかして……そういうことなんだろうか。
口にできずにいると、相手が苦笑した。
「あなたに振り向いてほしくて」
その答えに顔が火照る。
「係長のことはもうなんとも思ってないよ」
「あの人は視野が広くて頼りがいがある。いい部分は盗んでいきたいです。はたして追いつけるのか分かりませんが、明確な目標を持つのはプラスですから」
先を見据える言葉に驚く。仕事への姿勢から伝わってきたけれど、ハッキリ口にするのは初めてだ。
それに比べ、自分は漫然と働いている。
「見習いたいな。なにから始めればいいのかサッパリだけど」
「糸瀬さんなら見つかりますよ」
彼に保証してもらうと、不安が和らいだ。
「乙川くん……」
「はい」
「私、あなたに別れを告げたとき、ほんとうに苦しかった」
不意の話に相手が目を見開く。
私は改めて彼を見つめた。
「笑顔で送ってくれたけど、乙川くんもつらかったんだよね? 傷つけてごめんなさい。切り捨てておいて、結局は離れられなかった」
乙川くんは一瞬だけやりきれない表情をしたものの、すぐに吹っ切った笑顔になる。
「あのときのあなたは僕のことばかりで、自分なんて二の次だった。それは嬉しくて、哀しいことです。けれど、こうして心をさらけ出してくれた。わがままなんてひとつも口にしなかったあなたが、いまは譲るまいとしている。僕は喜ばしいです」
ああ、彼の言葉はいつも深い。ありのままでいいと受け止めてくれる。だからこんなにホッとする。
「ありがとう。でも、乙川くんだって私のことばかりじゃない?」
「あなたの笑顔を見たいという下心の産物ですよ、あくまで」
「私、ちゃんと自分らしく笑えてるかな」
「僕の心をとらえて離さないほど」
私はうん、とうなずいた。
彼の隣でなら、一片の曇りもない素顔になるだろう。
つないだ手をキュッと握ると、乙川くんが同じように応えた。
季節は移り変わり、寒さに肩を縮めることはなくなった。
それでも、彼の手はとてもあたたかかった。
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