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これは夢じゃない
連絡先を交換したあと、べつべつに課へ戻った。
三時ごろ乙川くんが差し入れる、紅茶とチョコレートもいつも通り。いちど物別れにしただけに、甘さがしみ渡った。
昼食を一緒にとっていた女性らに、こっそり「どうなったの?」と聞かれたけれど、答えに困ってしまう。
この関係にどんな名前をつければいいのか。
仕事に変化はない。たまに目が合うと、彼がにっこり微笑みかけてくる。自分がどういう表情を返しているのか、よく分からなかった。
この日の仕事は、定時をすこし過ぎたくらいで片付いた。
「お疲れさまです」と帰るとき、乙川くんはまだパソコンと向き合っていた。なにか言いたそうな顔をしたけれど、その場ではただ見送る。
女子更衣室に入ってロッカーを開け、ケータイをチェックすると、彼からメッセージが入っていた。
『今日、空いてたら食事しませんか? 仕事はもうすぐ終わります』
男性とこんなやり取りをするのが久しぶりで、くすぐったい。
どうしようかと一瞬迷ったものの、どうせまっすぐ家に帰るだけだ。断る理由はない。
二人きりで食事するのは初めてだ。
でもいずれ誘いに乗っただろう、と承諾を送る。
即座に、最寄駅そばの公園で待ち合わせ、行き先はおでん屋でいいですか、と窺うメッセージが来た。
公園の街灯の横で待っていると、乙川くんが息を切らして駆け寄ってきた。
「お待たせしました。身体が冷えたんじゃないですか? 落ち合う場所を考えるべきでした」
「ううん。更衣室ですこし喋ってたし、そこのドラッグストアで買い物したから、ずっとここにいたわけじゃないよ」
「よかった、寒い思いをさせてなくて」
「心配性だなぁ。一応、大人なんだし大丈夫だよ」
「糸瀬さんを心配するのは当たり前です」
サラッと言われて、胸がときめいた。
「私が危なっかしいみたい」
「職場ではしっかりしてますけど、すこしアンバランスな面があるように思います」
「後輩にダメ出しされた……」
すると乙川くんは明るく笑った。
「ダメだと言ってるんじゃないですよ。まったく隙がなかったら、僕なんて必要ないでしょう? そんな糸瀬さんだと困ります」
「間が抜けてるぐらいがいい?」
「ちょっとニュアンスが違いますけど。つけ込む余地があると助かります」
「乙川くんって悪い人だね。人畜無害な顔して」
「いまごろ気付いても手遅れです」
「もう……」
恨みの目を向けたとき、彼が不意に顔を背けてクシャミをした。
私が「大丈夫?」と尋ねると、乙川くんは苦笑いした。
「ここで立ち話をしてたら冷えますね。行きましょう」
並んで道を歩いていく。
相手がこちらの歩調に合わせてくれる。ポツポツ話題を振っては、楽しそうに笑う。
彼の隣は居心地がよかった。
おでん屋は路地を入った分かりにくい場所にあり、二十人、座れるかどうかの小さい店だった。
二人でカウンター席に腰掛ける。
乙川くんはここを先輩に教わったのだそうだ。
「先輩は今日、彼女さんとレストランデートなので、鉢合わせすることはありません」
その保証に私は笑った。
こんなふうに最寄駅の周辺を歩いていれば、いつか誰かに目撃されるかもしれない。彼はそれでもまったく構わないみたいだ。
私も異論はない。
ただ今日みたいに、自分たちの関係を聞かれたとき、どう答えるべきなんだろう。
普通の同僚でも、二人きりで食事に行くかもしれない。
でも昼の別れ際のように、キスはしない。
乙川くんは、この間柄に名前をつけたのだろうか。
ビールで乾杯して雑談しているうちに、おでんが運ばれてきた。
箸をつけると、どれも深い味わいで、同時にさっぱりしている。
年中食べられるといっても、冬の寒い日がいちばんだ。
「呆けちゃうくらい美味しい」
感嘆すると、乙川くんが破顔して「でしょう」と言った。
ついつい食べ過ぎてしまった。頻繁に足を運ぶのはお財布的に厳しいけれど、またこの味が恋しくなるだろう。
勘定は半々にした。
どうも彼は奢りたかったみたいで、私は提案する。
「次は奢ってもらっていい? 乙川くんが誘ってくれたら、の話だけど」
「また一緒に食事してくれますか?」
やや自信なさげな彼に、私はうなずいた。
「今日も楽しかった。あなたは?」
「もちろんです。でも食事ってあっという間ですね。まぁ、三時間も四時間も居座るわけにはいきませんけど」
名残惜しそうな言葉にドキッとする。
私も、これで駅に行ってさよならか、と思った。その気持ちをどう口にすればいいのか分からない。
相手がほっとした様子で結論づけた。
「考えてみれば、昼までは悲壮な覚悟をしていたわけで、それに比べれば夢みたいです」
「これは夢じゃないよ?」
すると乙川くんは幸せそうに目を細めた。
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