ぬるい水がいい

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 私は、乙川くんのまえに並ぶ皿を見た。 「それ、なんの料理?」 「えぇと、こっちのフライはエビで、ほかはチーズ入りコロッケです」 「へぇ、向こうでは頼まなかったな」 「よかったら取りますよ。どっちも美味しいです」 「お願い」  彼は重ね置かれた小皿を手にし、箸を逆手に持って料理を取り分け、こちらに置いた。  私はにっこり笑う。 「ありがとう」 「ほかも言ってもらえれば」 「そのときはよろしく」  私は未使用の箸を使ってコロッケを口に運んだ。 「ほんとだ、美味しい。一口サイズで食べやすいし、止まらなくなる系だね」 「それ一皿目は瞬殺で、追加したやつなんです。出来たてならよかったんですけど」 「充分だよ。出来たてだと、食べすぎて苦しむ羽目になる」  私の冗談に、彼は朗らかに笑った。  それから、食べて飲んでたわいないお喋りをする。  初めは落ち着かない様子だった乙川くんも、次第に肩の力が抜けた。私も、先輩相手のように気遣わずにすみ、リラックスしていられる。 「乙川くんって、犬だったら絶対にゴールデンレトリバーだよね」 「身体がゴツイからですか?」 「穏やかで人懐っこくて愛嬌があって。怒るところなんて想像できない」  彼は照れて赤くなった。 「そんなことないですよ。怒るときだってあります」 「ほんとかな。最近で怒ったのいつ?」 「いや、すぐには思い出せませんけど」 「ほら、めったにないんじゃない」  乙川くんが苦笑いした。 「糸瀬さんだって教育係についてくれたとき、僕がミスしてもまったく怒らなかったじゃないですか」 「乙川くんが、叱らないといけないような失敗をしなかったからだよ」 「作業に手間取っても、辛抱強く待ってくれましたし」 「私も教えるのでいっぱいいっぱいだった」 「あの頃、同期はみんな『覚えることだらけで大変だ』ってこぼしてましたけど、僕は楽しく学べました」  嬉しそうに言ってくれるので、私はホッとした。  もっとうまく説明できたんじゃないか。指摘は的確だったか。そんなふうに自信がなかった。  彼の言葉は、当時の苦労を帳消しにしてあまりある。 「優秀な生徒だったから、教える側もやりやすかったよ」 「糸瀬さんのおかげです」  乙川くんが穏やかな笑顔を浮かべる。  居心地のよい空気が漂う。頃合いを見て、もとの席に戻るつもりだったけれど、どうでもよくなった。  周りの人間は行ったり来たりしている。  私たちはそのまま和やかな時間を過ごした。  飲み会は終電前に解散となった。  タクシー代が経費で落ちるので、二次会に参加しない者は何台かに分乗する。  乙川くんはしきりに二次会に誘われていたけれど、「今日はもう飲みすぎました」と断った。  私は三科係長と距離を保ち、メンバーに空きのある乙川くんのグループに声をかけた。 「一緒させてもらっていい?」  すると乙川くんはビックリしたあと、急いで「もちろんです!」と答えた。彼と同期の男子が、「よかったな」とコソコソ言っている。  私は隣の人に話しかけて気付かないフリをした。  乙川くんはガタイがいいから、という理由で助手席に座る。家がいちばん近い同僚が、運転手に行き先を告げる。  車内の空気は、飲み会の余韻で明るい。  一人目が降り、二人目が降り、乗客は私と乙川くんだけになった。  次の行き先は彼の家だ。席が前後しているので、乙川くんはこちらを気にしながらも、ほとんど話しかけてこなかった。  私はぼんやり夜景を眺める。  じき目的地だというころ、彼が声をかけてきた。 「糸瀬さん、お疲れさまでした。気をつけて帰ってください」  私がなにも答えないので、相手は不思議そうな顔をした。 「どうかしました?」 「ちょっと……気分が悪くて」 「えっ、大丈夫ですか? 吐き気とか」 「ううん。でも横になりたい。悪いけど、乙川くんのうちでちょっとだけ休ませてもらえない?」 「構いませんよ。あとすこしですけど、もちますか?」 「すぐならだいぶ気が楽」  乙川くんは心配そうに言った。 「眠っていいですよ? 着いたら、僕が糸瀬さんを運びます。楽にしてください」 「ごめんね、甘えちゃって」 「いえ。一人にするのは心配ですし、僕で力になれるのなら」 「助かるよ」  私はかすかな笑みを向けたあと、ひとつ息をついた。  あまり喋らせるのもよくないと思ったのか、乙川くんは車の進行方向に目をやる。  車内にすこし張りつめた空気が漂った。
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