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長い夢を見ていた
目が覚めると、カーテンの向こうは明るくなっていた。
昨夜は遅くまで行為にふけったため、睡眠時間は充分ではない。それでも起きてしまうあたり、気持ちが張りつめているのだろうか。
乙川くんが仰向きに寝て、私はその腕枕で寄り添う。お互い裸だ。
私は起き上がり、隣人の寝顔を眺めた。
今日は土曜だから、明日の夜まで一緒にいられる。でもそれはしないと決めていた。
せめて一日のクッションを挟みたい。
乙川くんはよく眠っている。私はベッドを抜け出し、シャワーを浴びて服を身につけた。
折りたたんで持ってきたバッグに私物を詰めていく。歯ブラシや小型のシャンプーなどは、ビニール袋に入れてからしまう。
部屋に戻ろうとドアを開けると、ズボンを履いた乙川くんがベッドに腰掛けていた。
私はギクッと立ちすくむ。
起こすつもりだったけれど、動揺して言葉に詰まる。
乙川くんは静かな眼差しをバッグに注いでから、私を見つめた。
「荷物をまとめたんですね?」
驚いている様子はない。そのことに私は困惑する。
しかしどちらにせよ、考えを伝えなければいけないのだ。
「こんなふうに会うのはやめたいの」
「僕と一緒にいるのが嫌になったんですか?」
腕が震えそうになったので、ギュッとこぶしを握りしめる。
「私、ほんとうは三科係長が好きだったの」
思いきって白状したが、彼はとくに顔色を変えない。
私はこわごわ尋ねた。
「もしかして……知ってた?」
すると乙川くんが淋しげに笑った。
「僕はあなたを目で追っていたから」
私の想いに気付いていた……どこまで?
どのみち、心の内を語らなければならない。
「係長には奥さんがいる。だから諦めようとした。でもうまくいかなくて、ズルズル引きずったの」
相手が責める目をしているわけでもないのに、逃げ出したかった。
「奥さんが妊娠したって聞いたとき、完全に終わりだと思った。片想いもいけないことだって」
なにを口にしても言い訳にしかならない。
「どうにかして断ち切ろう、それができるならどんな手段でも構わないと考えて、私は……」
言いよどんで相手を窺うと、こんなときでも、彼はすべてを受け止めてくれそうな柔らかな空気をまとっていた。
ごまかしてはいけない。
「乙川くんの気持ちを利用した。誰かにそばにいてほしかった。タクシーで気分が悪くなったなんて嘘。あなたを罠にはめて、関係を持つよう仕向けた。飲み会でやたらとお酒を勧めたのも、夜中に起こして夢だと騙したのも、すべて……」
乙川くんが真剣に耳を傾けている。
「私はあの夜だけのつもりだった。翌日に冷たくあしらって、おしまいにしようと。でも」
土下座までした相手を思い出し、罪悪感が胸を占める。
「乙川くんはぜんぶ自分のせいにして、私を傷つけたって……。あなたは完全な被害者なのに」
あふれそうな感情をこらえて懺悔を続ける。
「あのとき、私がほんとうのことを言っていれば、傷口を広げずにすんだ。なのに、あなたの優しさにしがみついてしまった……」
情けなくも涙がこぼれた。
「一緒にいることで乙川くんが笑顔になってくれるのが、そっと気遣ってくれるのが、あまりにもあたたかくて、失いたくないと思った。その時間を引き延ばせば引き延ばすほど、ひどいことをしてると分かってたのに……!」
嗚咽が漏れる。
泣く資格なんてないのに、どこまで弱いんだろう。
張りつめた空気の中、静かな声が流れた。
「それはひどいことでしょうか?」
私は思わず相手を見た。
彼の表情に傷ついた様子はなく、ただ疑問を口にしている。
私はいったん唇を噛んで、答えた。
「私は心の欠落を埋めるために、乙川くんを都合よく扱った。あなたの気持ちを……踏みにじったの」
「僕が怒ったり哀しんだりしなくても、あなたは自分を責めるんですね?」
「それほどのことをした」
「僕が承知の上でも?」
「え……?」
私の困惑に対し、乙川くんが憂いを帯びた面持ちになった。
「あなたが係長への想いを整理しようとしたのは、見ていれば分かりました。いつもどおりに振る舞いながら、無理をしていた。飲み会の途中、係長がいたから戻るに戻れなかったんでしょう? その状況であれば近くに来てくれるかもしれない、と僕はつけ込んだ」
彼は思い出すように目を細めた。
「それでも、そのあとのことは予想外でした。僕はかなり酔っていましたし、実際にあの夜の記憶は曖昧です。でも冷静であっても、誘いに乗ったと思います」
やや自嘲の笑みを浮かべる。
「あなたが凍えた心をあたためたいだけだとしても。相手が僕でなくてもよかったとしても。偶然のすえ、こちらに目を向けてくれた。手を伸ばせば触れられる距離に」
私は混乱のなかでつぶやく。
「そんなの……虚しいだけじゃない」
「そういう選択をしたのはお互いさまでしょう」
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