長い夢を見ていた

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 乙川くんが穏やかな眼差しを注ぐ。 「あなたは僕を罠にかけた。けど、それがこちらの望みなら? あなたは僕を利用した。それでも必要とされたかったら? 自分のエゴで縛りつけたと思っているんでしょう。その代わりにあなたを知ることができるのなら、いくらでも取り上げてください。僕をそばに置いておくなら、あなただって離れられないんです」  私たちは一緒にいても、深い場所までは踏み込まなかった。  ずっと、ギリギリの均衡を保っていたのかもしれない。そうして、いくつの夜を越えたのだろう。  乙川くんはどんな気持ちで曇りのない笑顔を向けたのか。 「私はもう……あなたのそばにいられない」  すこしの沈黙のあと、彼が抑えた声でつぶやいた。 「いつかそう言うと思いました。その結論に至ったら、引き止めても聞き入れてくれないだろうと」 「こんな関係を続けても……先にはなにもない」  乙川くんはわずかに首を傾けた。 「僕たち、先のことを考えるゆとりなんてありませんでしたよね? いまをどうするか、それだけで精一杯だった」 「次に進まなきゃいけない」 「僕がそばにいると、歩き始めることができないんですね?」  感情が決壊しそうになる。  あなたの優しさに浸っていたい。でもそんなものは一方的な甘えだ。 「乙川くんは明るい未来をつかめる。ここで足止めされたら、どんどん遠のいてしまう。あなたを幸せにしてくれる人がきっと現れる。もう自由になるべきなの」 「僕にいちばん幸せをもたらすのがあなたでも、ですか」 「打算なしに乙川くんを見つめる人と出会える。そうすれば、こんな関係なんて疲れるだけだったと分かるから」  彼が険しい顔をした。 「さっきから僕のことばかりですね。関係を清算したら、あなたは? 仕事に打ち込むなり、まっさらな状態で新しい相手を探すなり、するんですか?」  私は言葉に詰まる。  そんなことは考えていなかった。  自分は相手の足枷になる。外さなければ。  でもそのまま口にしても、乙川くんは納得しないだろう。 「切り替えて、べつのなにかを目指したい。棚に新しい本を入れるなら、古いものは処分しなくちゃ」 「あなたの本棚に、僕は残してもらえないということですね」  相手の口調は淡々としているけれど、こちらの胸に迫った。  あなたがいれば依存する。断ち切らなければならない。  それがつらくても。 「私は初めから終わりまで一方的だった。こういう人間なの。いま乙川くんは頭の整理がつかないかもしれないけれど、『清算してよかった』ときっと思う。だから、もうこんなふうに会わない」 「なかったことにできますか?」 「人生の中ではほんのひとときだもの。すぐ忘れる」  私は自らを奮い立たせて相手をまっすぐ見た。 「ただの同僚に戻ろう? 飲み会からのこと……ぜんぶ白紙に戻そう。長い夢を見てた。もう目を覚ます時間なの」 「僕は必要ないんですね?」 「あたためてもらわなくても平気」 「そうですか……」  乙川くんが深いため息をつく。  しばしの静寂のあと、穏やかな声が言った。 「よかった」  私は驚いて相手を見つめた。  彼が安心したような笑みを浮かべる。 「僕を必要とするうちは、あなたが苦しんでいるということです。終わりにできるのは傷が癒えたから。あなたは渡り鳥で、僕は羽休めの木。充分な休息を得たら、飛び立つのは自然なことです」 「乙川……くん」  絶句する私に対し、相手は困った表情になった。 「そんな顔をしないでください。あなたにほんとうの笑顔を取り戻してほしかった。それができたかは分かりません。でも、いちばんつらい時期をやり過ごす手伝いはできたと思います。こんなに長く一緒にいられて、ただただ幸せです。僕はあなたに別れを告げられる日を待っていました」  私は彼を見据えたまま涙をこぼした。  乙川くんが気遣いの眼差しを注ぐ。 「泣かないでください。立つ鳥あとを濁さずですよ。振り返らず飛び立ってください。僕はあなたを癒やせたことを誇りに思います」  なにも言葉にできなかった。  今日を迎えることは初めから決まっていた。  これがお互いにとって最善なのだ。  それでも私は身動きが取れない。  けれど、乙川くんの役目を終えた満足の表情を見ると、とどまってはいけないのだと悟った。  部屋の中に進んで、持ってきた荷物を手にした。さほど重量はないのに、ひどく重く感じる。  肩に提げ、改めて相手を窺う。  乙川くんがじっと見守っていた。  私は身体が震えそうになるのを抑えて、口にした。 「これまでありがとう。……さよなら」  乙川くんは物静かな声で応えた。 「お元気で」  それが、終わりの笑顔だった。
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