世界に独り

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 必要書類を取りに資料室へ向かったときのこと。  揃えていくと意外と量になってしまった。二回に分けるか、台車を借りてこようか迷っていると、不意にドアが開いて乙川くんが入ってきた。  彼は書類の山を見て言った。 「けっこうな量ですね。手伝います」  申し出はありがたい。  それなのに、相手の優しさに触れるのが怖くて思わず口走った。 「いいよ、台車で運ぶから。一人で平気」  すると乙川くんは呆れた顔を向けた。 「手ぶらで帰るほうがバカらしいですよ。どうせ戻りついでです」 「一緒にいるところを誰かに見られるのが嫌なの。みんな私たちが別れたことを知ってる。二人きりは困る。それは乙川くんだって……」 「僕が、なんですか?」  答えられずにいると、相手はふうとため息をついた。 「僕たちはただの同僚です。そしてこれは仕事。なにを気遣う必要があるんですか?」 「そう……だけど」 「過敏になっているのは糸瀬さんでしょう。僕が普通にしても、そっちがそんなだからギクシャクするんです」 「……ごめんなさい」  乙川くんは机のそばまで来て、三分の二ほどの書類を抱えた。 「先に持って行きます。時間を置いて戻ってください。それで構わないでしょう」  そうして離れていったが、いったん足を止める。 「まえと同じに振る舞ってください。そうしろと言ったのはあなたじゃないですか」  背中が遠ざかってドアが閉まった。  私は泣きたくなり、うずくまってこらえた。  乙川くんは前に進んでいる。私は身動きが取れずにもがいている。どうして切り替えられないのだろう。同じ場所を行ったり来たり。  自分が思うよりずっと、彼に依存していたのだ。  苦しいのはいっときだと思ったのに、一向に和らがない。まさか、ずっとこのまま……?  無理やり想像してみた。  課のみんなのまえで、乙川くんと浅木さんが揃って報告するのを。 『このたび、僕たち結婚することになりました』  彼らに祝福の拍手を送るなんて無理だ。  三科係長の奥さんの妊娠が分かったときは、かろうじてできたのに。  私のなかで、係長より乙川くんの存在が大きくなっている。  手遅れになってから気付くなんて。  いつもこうだ。手をこまねいているうちに八方ふさがりになる。  振られると分かっていても、係長に気持ちを伝えていたら。  エゴから始まった関係だとしても、あなたを失いたくない、と乙川くんに訴えていたら。  結果がダメでもひと段落ついたのに。  雫がポタリと落ちて、床でにじんだ。  そのまましばらく動けなかった。 * * *  チームを組んでの案件が片付いた日、メンバーの打ち上げが提案された。私は体調がすぐれないからと辞退する。  飲み会の話を聞きつけた若手が「ご一緒させてください!」とねだる。その中に浅木さんもいた。  この場合は部外者なのだが、まぁいいか、という結論になる。  浅木さんが乙川くんの隣で「楽しみです!」と笑顔を向ける。彼は穏やかに「そうだね」と答えてから、不意にこちらを見た。  まともに目が合ってしまい、私はあわてて顔を背ける。  まだ、ただの先輩には戻れない。  私はその場を離れて、廊下の窓から外を眺めた。  始まりの飲み会以前、彼に対して自分はどんなふうに接していた? 数年前のことのようで、うまく思い出せない。 『ぜんぶ白紙に戻そう』  告げたのはこの口なのに、自分こそがそれをできずにいる。  衝動的に会社を辞めたいと思った。  こんなふうに顔を合わせ、ときに接する関係では、『乙川くん』という本を手放せない。新しい出会いなんて必要ない、と考えてしまう。  なら、この会社を去ればすべてを過去にできるの?  自分に問いかけたあと、絶望した。  静かに日常をこなしながら、ずっと溺れているみたいだった。  苦しい。誰か助けて。  でも弱音を吐くことができなかった。  一人でも生きていくことはできる。  ごはんを食べて仕事をして夜に眠る。私は大丈夫。  ただ時を重ねていこう。  それしかできないのだから。
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