152人が本棚に入れています
本棚に追加
その手で断ち切って
「最近、ちょっとミスが多いよ」
三科係長に呼ばれてそう指摘され、私は硬直した。
仕事上の失敗なんて誰でもする。だから彼は「次は同じことのないように」と注意するけれど、俯瞰して叱るのは珍しい。
ここのところ、単純ミスを繰り返している。注意力の散漫だ。係長が警告しなければならないほどの。
「す、すみません。気をつけます」
「体調が悪い? 疲れて見えるときがある」
「いえ……。うっかりミスです」
「有休あるから、いちど休みを取るのはどう?」
その提案はショックだった。
いまの私から仕事を取り上げたらなにが残るの?
分かってる、辞めろと言われたわけじゃない。ちょっと気分転換してはどうか、と勧められただけ。
それでも最終通告を受けた気持ちになった。
「……はい。月替わりの作業が落ち着いたら休みます」
相手はなにか言いたげだったけれど、彼あての電話がかかってきたので「戻っていいよ」と告げた。
私は席に着いてから呆然とした。
仕事の正確さには自信があった。それが崩れている。きちんとしないと、と自らを叱咤してパソコンに向き合った。
自分がしっかりしているのかどうか、本当はよく分からない。
即座に休むべきだろうか。でもダメな状態で仕事を離れると、戻ってこれないのではという不安が先立った。
ひと仕事を終え、隅々までチェックしてわずかに肩の力を抜いた。
ミスをしないよう慎重に作業したぶん、残業を余儀なくされた。
みんなどんどん帰っていく。係長が声をかけてきた。
「根を詰めなくていいよ」
「あと二十分で片付きますから、そこまで」
彼は仕方ないなという顔をして、「お先に」と踵を返した。
帰る面々に乙川くんもいて、何人かと話しながら出ていく。
そばに浅木さんが笑顔でついている。
仕事は十分押しでなんとか終了した。
部屋に残るのは自分だけ。パソコンを落としてため息をつく。
会社をあとにし、駅までの道を辿る。それなりに人が行き交っているが、無性に心もとなかった。
電車に乗り、最寄駅で降りてコンビニで夕食を調達する。
部屋に入り荷物を下ろす。とたんになにもかも面倒になった。
食事を取ってお風呂に入り、それから眠る。そんなすべてを投げ出してしまいたい。
明日も明後日も同じことの繰り返し。
機械になってしまいたい。心なんていらない。
視界が潤んで、私は顔を両手で覆った。
「大丈夫……じゃない」
よろよろと歩き、ベッドの前で膝をついて布団に突っ伏した。
もう限界だ。
「乙川くん、乙川くん……、乙川……くん」
顔を埋めたあたりの布が濡れていく。
いつか気持ちは薄れると思ったのに、これでは前より膨らんでいる。胸を占めて破裂しそうだ。
自分から去ったのに。
彼の優しさをさんざん利用して、相手がどんな思いでそれを受け止めていたか、これっぽっちも考えなかった。泣く資格なんてない。
でも切り替えられない。乙川くんしか考えられない。
笑顔を向けられるのも、穏やかに名を呼ばれるのも、優しく抱きしめられるのも、ほかの誰かなんて想像できない。
私を見つめて嬉しそうに目を細めてほしい。それが叶うなら、ほかのことなんてどうでもいい。
彼には浅木さんがいるのに、あふれる想いを止められない。
こうなったら、乙川くんの手で断ち切られるしかない。
「そんなことを言われても迷惑です」と……。
そのあと会社を辞めよう。引っ越して一からやり直そう。
彼の近くにいてはいけない。
打ちのめされた自分に、それだけの気力が残っているかは分からないけれど、終わりにする。
泣くだけ泣いたら、疲れと眠気が襲ってきた。
服を脱いで下着姿になり、布団に潜り込んだ。明日は休日。アラームをセットする必要はない。
寝床のぬくもりに包まれるとホッとした。
心が決まったことで思考が晴れた。
週が明けたら、想いを伝えよう。
引きずりこまれるように眠りに落ちた。
最初のコメントを投稿しよう!